034A. 若年寄り
御用部屋の襖が音もなく閉まり、石畳の上を草履の音が遠ざかってゆく。
初登庁を終えた正弘は、静かに息をついた。
目の前の空気が濃い。息を吸うたびに、喉の奥に緊張の残り香が残る。
「若年寄、御苦労にございます」
控えていた家臣が頭を下げ、駕籠を示す。正弘は頷いたが、すぐに乗り込む気にはなれなかった。
数刻前までいた西の丸の政務会議の空気が、まだ背後に貼りついて離れない。
そこに並ぶ老中や他の若年寄たちの視線は、決して敵意ではない。だが、明らかに“見ている”ものだった。
若すぎる、という声はなかった。
声がないぶん、重たかった。
(言葉を慎むべきとき、なのだ)
正弘はそう自らに言い聞かせた。
むやみに発言すれば、軽率と見なされる。だが黙っていれば、存在感が薄い。
初会議の本質は、己を知る場であり、他を量る場ではなかったのかもしれない。
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帰路の駕籠の中、障子越しの光がわずかに揺れた。
揺れに合わせて思い返されるのは、会議の後、老中の一人がふともらしたひとこと。
「……覚えているか、あのときの水野を」
誰に言うでもなく、誰も答えなかった。
(水野……水野忠邦殿)
あの老中は、かつての若き改革者の名を、あえて口にした。
賞賛か、警告か、あるいはただの独り言か――わからない。
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屋敷に戻ると、父・正寧が珍しく書院で待っていた。
「……よく戻ったな。疲れた顔をしておる」
そう言って茶を差し出してきた父の手は、揺るぎなかった。
「会議とは、あのようなものかと」
「いや。今日のは、お前を“見に来た”会議だ」
「……」
「若年寄という役は、次の老中を見据えた目で、あらゆる者に観察される役だ」
「心得ております」
正弘はうなずき、茶を口に含んだ。
だが、口の中に広がる温もりよりも、背中に刺さる無言の圧のほうが、まだ熱かった。
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夜更け、帳面を開き、筆をとる。
《若年寄、拝命す。己、未だ器に非ずと知る。されど、器を成すこと、決して遠からずと信じる。》
書き終えると、筆を置いた。
蝋燭の灯がわずかに揺れた。
その揺れを見つめながら、正弘は深く、静かに、息を吐いた。
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[ちょこっと歴史解説]
▪️若年寄という役目
阿部正弘が拝命した「若年寄」という役職は、江戸幕府の中でもとくに重要な政務を担う役目だった。老中と並び評定所に列席し、旗本や御家人の監督、寺社・都市の行政、町奉行や火消などとの調整も行う。政策立案というよりは、その実務面の調整・統括を担う、いわば幕府の運営の実働部隊といえる。
この若年寄、実際には「若」くはない。就任するのは通常40代から50代。経験を積み、官僚としての器を磨いた者がなる役職だった。
そこに、二十歳そこそこで抜擢されたのが、阿部正弘である。天保14年(1843年)、わずか21歳。これは異例中の異例だった。背景には、彼の父・阿部正寧が老中として信頼を得ていたことや、昌平坂学問所での学識が高く評価されていたことがある。だが、それだけではない。天保の改革の行き詰まりを前に、幕閣内では「新しい血」を必要とする空気が、静かに広がっていた。
若さは、時に武器であり、同時に試練でもある。
正弘がこの日、感じた冷たい沈黙。それは、幕政という海に初めて足を踏み入れた若者への、洗礼だった。




