030A. 静かなる帳面
朝の空気は、まだ冬の匂いを残していた。
昌平坂から戻った阿部正弘は、屋敷の書院で帳面を開いた。
筆はまだ重たい。
書くべきことは多いが、書ける言葉が少ない。
「水野殿、倹約の範囲さらに拡張。町方における芝居・寄席の停止を断行。
旗本屋敷の上知の件、今朝の報にて再確認……」
筆先は淡々と記す。
だが、脳裏には、父の声が残っていた。
「あのような動きは、長くは続かぬかもしれぬ。だが、見ておけ。
誰かが世を揺らす時、必ず、何かが削られていく」
政は“理”でも“熱”でもない。
そのどちらでも足りぬ場所に立たねばならぬ。
けれど今の自分は、まだその場に立っているとは言えない。
控えの間に顔を出すようになってから、月がいくつか過ぎた。
「若年寄候補」――そう囁かれることもあるが、任命はまだ先の話だ。
今の自分にできるのは、見ること、そして、記すこと。
阿部は筆を置き、そっと帳面の端を撫でた。
これはまだ「記すこと」しかできぬ自分への、自戒のようなものだった。
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その日、控えの間では数人の上役たちが声をひそめていた。
「水野様の件、かなり強引に映りますな」
「上知令、あれはまるで……反発を誘っているようなものだ」
皆、言葉を慎重に選んでいる。
だが、誰も「止める」とは言わない。
恐れでも、遠慮でもない。
――様子見。静かな沈黙。
「阿部様は、いかがお考えか」
そう問われたとき、正弘は帳面を閉じて静かに答えた。
「記しております」
「記す、とは?」
「今を、です。書き留めるべき時だと思いまして」
それは、逃げではなかった。
彼は確かに見ていた。
水野の改革がどこまで進み、どこで綻び、そして何を残すのか――
その全てを、次の“政の手”へつなげるために。
帳面は静かだった。
だがそこには、風が書かれていた。
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[ちょこっと歴史解説]
▪️阿部正弘 出世前――その静けさに、政が宿る
本話の阿部正弘は、まだ正式に幕政の中核に名を連ねてはいない。
若年寄への任命もされておらず、「家督を継ぐ者」「将来を嘱望される若者」として、控えの間に出入りを許された段階にすぎない。
水野忠邦が老中として改革の狼煙を上げる中、
正弘にはまだ、「何かを変える力」はなかった。
だが、彼には見る目と、記す手があった。
政の場において、声を上げず、力を振るわず、ただ見つめ、帳面に残すという態度は、
時に「無力」にも映る。
けれど阿部正弘は、その静けさを恐れなかった。
記録し、冷静に観察し、語るべき時を見極めようとする――
それこそが、後に彼が「政を動かす者」となっていく基礎だった。
政において、沈黙は敗北ではない。
沈黙の中にこそ、思考と構想が育つこともある。
この話は、まだ何者でもない阿部正弘が、「見る者」として立っていた時間。
その“記録者の時代”こそが、後の彼をつくる土壌となっていく。
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