029KR. 改まるということ
「上知……ですって?」
味噌汁の椀を手に取ったまま、固まる。
目の前には、渋い顔の父と、何も言わずに箸を置いた母。
「うちは……対象じゃないんですか?」
「今のところは、な」
父が低く答える。
「だが、御府内近くの旗本屋敷は次々と召し上げの話が出ている。
幕府が直轄地を広げるために、江戸を“整理”しようとしてるらしい」
上知令――紙の上では「合理的」とされている政策。
実施されれば、江戸市中の土地が幕府の直轄地になる。
年貢は増え、支配は強化される。
ただ、それだけの話じゃない。
この屋敷は古くて小さいけど、「旗本」として代々住み続けてきた。
それが「取り上げられる」っていうのは、ただの引っ越しなんかじゃない。
「……家って、なんだよ」
思わず呟いた声に、父が眉をひそめる。
「何か言ったか」
「いえ。……味噌汁、ちょっと冷めてきたなと思って」
濁すしかなかった。
この違和感は、なんて言えば伝わるんだろう。
武士とはこうあるべきだ。
旗本とはこういうものだ。
屋敷を構えるのが、誇りであり、義務でもある――
それは知識としては理解できる。
でも、その誇りが“取り上げられる”ことでしか保てないのなら、
この制度そのものは、誰のためにあるんだろう。
「……今日は外を歩いてきます。ちょっと、町の様子を見たい」
「物見遊山か?」
「いえ。何が“改まる”ってことなのか、見てみたくて」
父は何も言わなかった。
けれど、そのまなざしには、何かを測るような静けさがあった。
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[ちょこっと歴史解説]
上知令と「家」という感情
天保の改革の中でも、上知令はとりわけ反発を招いた政策でした。
表向きは土地の再配分による財政健全化でしたが、江戸・大坂の屋敷を“召し上げ”られる旗本・大名たちにとっては、
それは単なる行政上の措置ではなく、誇りの解体でした。
「旗本は江戸に屋敷を構えてこそ旗本」――
その価値観が揺らぐ瞬間に立たされた者たちは、
理屈ではなく、自らの立ち位置を問われることになります。
この話では、勝麟太郎の視点から、
“正しい改革”がどれだけ個人の生活と感情に波紋を広げるかを描きました。
改革とは、「誰が」「どこから」見るかで、まったく違った顔を見せるものです。




