027M. 改革の狼煙
朝の光は冷たい。
二月の風が、書院の紙障子をうっすらと揺らしていた。
水野忠邦は、硯に筆を下ろしかけて止めた。
墨の色が、微かに薄い。
さきほどまで考えていた言葉が、脳裏から離れない。
「倹約令に、風俗取締。次は……芝居町か」
ひとりごちる声に、誰も応じる者はいない。
この部屋で忠邦は、いつも独りだった。
いや、最初からずっと、独りであったのかもしれない。
思い起こせば、佐渡奉行として赴任していたあの年――
飢饉、百姓一揆、鉱山の労働者たちの呻き声。
法と制度は、確かに存在した。だがそれは、いつも“届いていなかった”。
「上が動かねば、下は救われぬ。声を上げる者に、届く政が必要だ」
そう記した自筆の意見書は、いまも机の抽斗にある。
彼が老中になった日、その紙を真っ先に取り出した。
あれは誓いだった。
名門水野家の重責でもなく、地位でもなく、己がこの国に残すべき火のようなもの。
江戸の町には華やぎがあふれている。
贅を尽くした商家、芝居小屋、浮世絵、異国の言葉に浮つく蘭学者。
だがそれらは、脆さの裏返しだ。
基盤が揺らいでいることを、人々は笑って忘れようとしている。
「この国を正すには――風から、形を変えねばならぬ」
水野は、筆を取った。
いまの政は、腐っている。
“変わらぬこと”を善とする幕府の中で、誰もが「面倒を避ける」ために口を閉ざしてきた。
だからこそ、自分が檄を打つのだ。
理想ではない。
“必要”だからこそ、行わねばならぬ改革。
彼の筆が走る。
命令文は、厳格で、簡潔だった。
町年寄への通達。芝居小屋の取り締まり。商人たちへの商行為制限。
そして、最後にこう付け加えた。
「為政者の沈黙は、民にとっての怠慢なり。老中たる者、言葉を尽くし、行動を以て示すべし」
すでに何人かの同僚老中は、不快感を表していた。
慎重を旨とする者、周囲の顔色を伺う者――
だが、水野忠邦は違った。
彼は、江戸の空に、狼煙を上げようとしていた。
静かに立ち上がると、彼は脇差を手に取った。
言葉だけでは届かぬ時代に、言葉と行動の両方で挑もうとするその背は、やけに静かだった。
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[ちょこっと歴史解説]
水野忠邦の“孤独な理想”
水野忠邦は、政治的には確かに幕閣の中核を担った人物です。
だが、その政治姿勢は――幕府内部にあって、実に異質でもありました。
「変革」を幕府の中から実行しようとする者は、そう多くなかった時代。
忠邦は、佐渡奉行や大坂町奉行を歴任する中で、現場の疲弊と制度の限界を肌で知っていました。
彼は、「上が変わらなければ、下は救えない」という一点において、極めて現実的で、同時に理想的でもあったのです。
天保の改革とは、民を救うための改革ではありますが、
その「救い方」は、徹底した上意下達と秩序による締め付けであり、
そこには水野自身の中にある「信念」と「不器用さ」が見え隠れします。
この話では、改革を始める前夜の水野――
信念と焦燥のはざまで、ただ一人「檄」を準備する、孤独な改革者の姿を描きました。




