026A. 檄、まだ遠く
部屋にほのかに灯る行灯の明かり。
囲炉裏の端に置かれた膳には、粥と干し魚、それに少しの菜。音もなく箸を運ぶ音が、かすかに響いていた。
「近頃、水野殿が動いておるようだな」
ぽつりと、父・正寧が口を開いた。正弘は、湯気の立つ粥から顔を上げる。
「……はい。倹約令、町方の風紀取締り、江戸表でも話題となっております」
「表だけではない。諸藩への通達も厳しい。なりふり構わぬ手の早さよ」
父は、茶碗を手に取るでもなく、ただその指先を膝の上に置いたまま、じっと正弘を見ていた。
「あれは、理想家だ。だが……理想ばかりを振りかざす者ほど、往々にして人の背を向かせる」
「老中としての責務を――」
「責務を負う者ほど、声を上げすぎてはならん。聞こえぬ声で人は考える。聞かされすぎる声では、ただ従うしかない」
正弘はその言葉を黙って受け取った。
正寧は語るようでいて、何かを測っている。水野という男への評価か、それとも――自分への、問いかけか。
「父上は、水野殿をどう見ておられますか」
そう問うと、父は珍しく口の端をわずかに上げた。
「振り返れば、己が檄を投じたと思い込んだ者は、得てしてその波に呑まれる。さて、水野殿は……どうなるかのう」
その言葉には、どこか冷たくも、やさしい距離があった。
やがて二人の箸が音を立てる。粥の湯気が上がる音の中で、正弘はもう一度、父の横顔を見た。
――檄とは、遠くで上がる狼煙のようなものか。
それとも、己が手にする日が来るのか。
何も言わぬ父の背に、いつもよりも遠いものを感じながら、正弘はそっと茶をすするのだった。
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[ちょこっと歴史解説]
▪️天保の改革とは何だったのか
天保の改革――その名は後世に語られるが、実際の姿は一筋縄では語れない。
改革の旗を掲げたのは、水野忠邦。
老中として幕府の屋台骨を支える重責を担いながら、彼は倹約令、風俗取締、異国船対策、そして上知令と、立て続けに制度改革を断行していった。
背景には、天保の大飢饉、物価の高騰、治安の悪化――幕藩体制のひずみが限界に達していた現実があった。
水野はそれに「真正面から」挑んだ政治家だったと言える。
だが、その正面性こそが、かえって時代の軋轢を広げた。
特に、江戸や大坂の周辺の要地を幕府直轄とする「上知令」は、諸大名や旗本の反発を買い、結果的に彼の失脚を早めることになる。
政治とは、正しさだけでは進めない。
水野は真面目すぎたのかもしれない。
あるいは――改革を急ぎすぎたのだろう。
この回で、阿部正弘はまだ「遠くから」その風を見つめている。
若年寄にすらなっていない時期。
けれど、父・正寧を通じて、彼はすでに「改革とは何か」「政とは何か」を感じ始めている。




