(幕間).静かなる炎
――世に出る名を、持たぬ者。
音もなく時は流れる。名を呼ばれることもなく、命じられることもなく、ただ家の座敷に座して日々を数える者がいる。
部屋住み。
そう呼ばれる立場にある青年は、広大な屋敷の一隅で、ひとり、障子越しの光を眺めていた。
命じられぬ者に、声はかからない。名を告げられぬ者に、戸は開かれない。
けれど、彼は黙して、見ている。
世のうねりを、江戸の空気を、変化を、異物を。
ある日、茶を運んできた下女が笑い交じりに言った。
「その若様ったら、まーた変な言葉を使ってたんですよ。“マジで”とか“了解でーす”とか、何の国の言葉やら……」
「そこの台所番の権助が言ってましたよ、お団子ばっかり食べたがるんですって。変わってますよねぇ、殿様なのに」
彼は茶をすすりながら、障子越しの光をじっと見つめていた。
――“マジで”?
聞き覚えのある口調。耳の奥に残っていた、かつての記憶がかすかに反応する。
“マジで”なんて、今の時代の若い者でもよく使う言葉だ。
けれど、あのとき一緒にいた奴らも、そんな調子だった気がする。
ただの偶然かもしれない。でも、そう思って終わるには、どこか引っかかる。
――あのとき、確かに願った。
このまま終わるのはいやだ、と。
そう、伏見稲荷のあの階段の上で。
あの奇妙な班の4人――
口が軽くて明るい男子。
芯の強そうな女子。
口数は少ないけれど目が澄んでいた男子。
それに、何かを背負ったような優しい目の女子。
似た声が、どこかに混じっていた気がする。
「若殿」と呼ばれているその人物の話が、屋敷にもうわさとして届く。
いや、まさか、そんなことが……
でも、もしそうなら。
この世界に、ほかにも“あの日の者”がいるのだとしたら――
そう思うだけで、彼の心には静かな熱が灯る。
そして、数日前に家老が持ち帰った江戸の報――
「蛮社の一件、渡辺崋山、高野長英、処分さる」
一枚の紙に綴られたそれは、冷たい筆致だったが、心のどこかにさざ波のようなざわめきを残した。
――正論が咎となり、憂いが罪とされる世か。
崋山の絵を、昔、兄の書斎で見たことがある。人物の眼差しが、見る者を試すようにこちらを射ていた。
その筆を握った者が、今、声もなく押し込められている。思想ではなく、静かに事実を記しただけで。
それでも、書かずにはいられなかったのだろう。言葉にしてしまえば、消されると知っていても。
彼は筆を取った。硯に墨を落とすと、静かに綴る。誰にも見せるあてのない、自らへの記録として。
「言葉は、刀にあらず。だが、刀より鋭く、人を生かし、また斬る」
ふと、かすかに障子の向こうで誰かの足音が止まった。聞き耳を立てるでもなく、ただ通りすがったのだろう。
それでも彼は筆を止め、墨の匂いをかすかに吸い込む。誰にも知られぬまま、消えていく言葉があることを、今、この時代が証明している。
だが、ならばこそ。
語らずとも、記せば残る。記せば、未来に残る誰かの手に触れるかもしれない。
声にはならぬ声が、今、炎のように胸奥に灯る。
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[ちょこっと歴史解説]
▪️部屋住み
江戸時代の武家社会において、「部屋住み(へやずみ)」とは、家督を継がずに家の一室で暮らす家族、特に次男以下の男子を指す言葉でした。多くの場合、兄が家督を継いでいる間、弟たちは正式な役職も持たず、家の中で静かに暮らしていました。
彼らは“無役”でありながらも、いざというときの後継候補でもありました。だからこそ、表立って動けず、政治や家の問題に対しても口を出すことは難しかったのです。学問に打ち込んだり、日々の鍛錬に励んだりして過ごす者もいれば、将来を諦めたように静かに暮らす者もいたと言われています。
この物語に登場する彼も、まさにそんな「部屋住み」の一人。閉ざされた部屋の中で、しかし時代の気配に耳をすませ、静かに熱を宿しているのです。




