002A.お殿様!って、私のこと?
朝が来た。
でも、目覚まし時計は鳴らなかったし、カーテンも開いてない。開いていたのは、障子だった。
「お目覚めでしょうか、正弘様」
毎回この呼ばれ方をされるたびに、何かこそばゆい。いや、こそばゆいどころか、むしろムズムズする。たぶん、まだこの名前に自分の意識が追いついていないんだと思う。
「……おはよう、ございます?」
変なイントネーションになったけど、相手は気にした様子もなく、にこやかに頭を下げた。
「本日はお屋敷の中をご案内いたします。御役目の場所や、奥方様のお部屋など――」
「ちょ、ちょっと待って! 奥方って誰!? わたし、結婚してないんだけど!」
言った瞬間、使用人の顔が凍った。
(あ、しまった……言い方、間違えた?)
でも、なんとかごまかせたっぽい。「記憶が……」みたいなオーラを出しておけば、だいたい何でも納得してもらえるのは、この世界の便利なところだ。
◇
案内されたのは、思った以上に広い屋敷だった。庭、蔵、書院、武家の部屋。どこも木の香りがして、静かで、落ち着いていて、逆に落ち着かない。
「こちらが政務の間にございます。いずれは、正弘様も――」
その瞬間、言葉がピタッと止まった。たぶん、「政務」って言っちゃいけなかったんだと思う。今の私は、「落馬で記憶が混乱してる」ということになってるから。
それにしても、「政務」って何するんだろう。学校の委員会みたいなもの? それとも、生徒会? まさか、もう働けってこと……?
(いやいや、まさか……)
だけど。
案内された部屋の机の上には、分厚い書状の山と、筆と、重そうな印章がきちんと並べられていた。
(まさか……ね)
でも、その「まさか」が、日に日に近づいてくる気がする。
◇
部屋に戻ると、お昼の膳が用意されていた。白ごはん、お味噌汁、焼き魚、漬物、あと何か煮たもの。
(地味だけど、めっちゃバランスいいなこれ……)
なんて思っていたら、使用人がぽつりとつぶやいた。
「そういえば、今日は『川路様』がお見えになるとか……」
……かわじ?
なんか、聞いたことあるような気がするけど、思い出せない。
気のせい? いや、でも……変な引っかかりがある。
(まあ、どうせ時代劇みたいなもんだし、変な名前の人なんていっぱい……)
そう思いながらも、心のどこかがざわざわした。
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[ちょこっと歴史解説]
阿部家と阿部正弘
阿部正弘は、江戸幕府の譜代大名である阿部家に生まれました。阿部家はもともと徳川家に古くから仕えてきた家柄で、信頼の厚い譜代として幕政の中枢にたびたび関わってきた名門です。
■ 阿部家のルーツ
阿部家は、三河国(現在の愛知県)出身の武士で、家康の家臣として戦国時代から活躍。徳川家康の天下取りに貢献したことで、江戸時代に入ってからも重要なポストを任されるようになりました。
■ 阿部正弘の父・阿部正寧
阿部正弘の父も幕府の老中まで上り詰めた人物で、息子の正弘はその家柄と実力をもって、若くして政界の中心に立つことになります。
■ 阿部家の領地
阿部家は**備後福山藩(現在の広島県福山市)**を治める大名でした。福山藩は石高が10万石以上あり、譜代大名としては中でも有力な家の一つに数えられます。
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阿部正弘は、このような家柄に生まれながらも、単なる名門のボンボンではなく、自ら学び、考え、時代を動かそうとする情熱を持っていました。その背景には、代々幕政に関わり、責任を背負ってきた阿部家の伝統があったのかもしれません。




