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JK老中、幕末って美味しいいんですか?  作者: AZtoM183
3.蛮社の獄
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025A.声なき声を綴る(終)

朝の静寂のなか、庭に面した書院に一人、正弘は座していた。

外では梅の蕾がふくらみ、まだ咲かぬ春がそこまで来ていた。


彼の手元には、昨日届いた報告書がある。

「蛮社一件、記録完結す」

表紙の字は淡々としている。だがその奥に、幾つもの“声なき声”がある。


渡辺崋山の自刃。高野長英の逃亡。

文字にすれば、ただの事実。しかし、事実の裏には、息遣いがある。


「書いて残すことが、なぜ恐れられるのだろうな」

ぽつりと呟いた言葉に、父・正寧は眉を動かす。


「それはな、正弘――“記録”とは、いつか“証”になるからだ」


「証、ですか」


「いまは消されるかもしれぬ。だが百年後、真実として甦ることがある。幕府は、それを最も恐れている」


父はそう言い残し、奥へと下がっていった。


夜。帳面を開いた。

表題は記さず、ただ淡々と、出来事と所感を綴っていく。

紙の上に現れるのは、事件の輪郭ではない。そこに潜む思いのかけら。


ふと、思う。

誰かが、どこかで、自分と同じように記しているのではないか。

筆を握る手のひらに、見えない連なりを感じる。


それが誰かを知らない。

だが、世の理不尽を、ただ飲み込むだけで終わらせぬ者たちが、

確かにこの国のどこかにいる。

その予感だけが、火鉢の底で残る熾火のように、正弘の胸に灯る。


やがて、母が静かに湯を運んできた。

何も言わず、そっと盆を置いて部屋を出てゆく。

その背に、礼を言う。


火はまだ消えていない。

言葉も、記憶も、記録も。

そして、遠くの誰かの思いもまた。


正弘は再び筆を取った。

声なき者たちの声を、未来に託すために



[ちょこっと歴史解説]


▪️記録文化と幕末


江戸幕府は、言わば「記録による統治」を重んじた政権でした。

行政文書、日誌、町役人の帳簿、寺社の届け出、そして武家の家記――

あらゆる階層において、事実を“書き残す”という行為が重要視されていました。


しかし幕末に近づくにつれ、この「記録」という行為が、

単なる管理ではなく、“時代に抗う力”として意味を持ち始めます。



「記録」は武器か、それとも盾か


蛮社の獄で罪を問われた渡辺崋山や高野長英は、いずれも文筆に秀でた知識人でした。

彼らが書いた文は、幕政批判と見なされ、取り締まりの対象となったのです。


つまり、書くこと自体が処罰の対象になった時代でした。

それは裏を返せば、「書かれた言葉」が持つ影響力を、

幕府自身が強く恐れていたことの証でもあります。



若き阿部正弘と「記録」の自覚


本作で描かれる阿部正弘は、まだ若年寄に登用される前の段階ですが、

すでに記録への感受性を強く持つ人物として描かれています。


史実の正弘も、後に老中として国政を担うなかで、

外国事情の情報整理、意見具申、各役人の記録提出などを重視し、

「記録をもとに判断する」近代的な官僚像を形づくっていきます。



幕末という時代の「言葉」と「証」


幕末には、勝海舟の『氷川清話』、川路聖謨の日記や遺言、

篤姫の書簡、ペリーの報告書、開国交渉の記録、数々の志士の遺墨――

まさに“書かれたもの”によって、時代の真実が今日に伝えられています。


一方で、失われた声も数多くありました。

記録されなかった言葉、消された証拠、焼かれた文書。


だからこそ、当時の人々は、自らの言葉を未来に託すようにして記したのかもしれません。



「書くということは、託すということだ」

この回の正弘の姿は、その自覚の芽生えでもあります。

記録とは、過去の事実であり、未来への遺言でもあるのです。

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