021A.言葉は火の如く
言葉とは、かくも熱を帯びるものか。
蝋燭の灯が揺れたわけでもないのに、硯の水がぬるく思える。
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「御父上は、渡辺崋山の件に関して、どうお考えか?」
昌平坂の友が、ぽつりと尋ねた。
若殿として通う日々にも、噂は避けられない。
“蛮社の獄”――その言葉が帳面の外に、静かに広がっている。
「表向きは、評定所による決断。だが、我が家もその座に連なる以上、傍観者ではおれぬ」
自分の口から出た言葉に、妙な異物感が残った。
誰の口調でもない。だが、心からの声でもない。
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「父上、お時間よろしゅうございますか」
夜の膳が済んだあと、正弘は父・阿部正寧の書斎を訪ねた。
「……勝手に口を挟むな、とは申さぬ。だが、火のごときものには近づきすぎるな」
老中の顔ではなく、父親の目でそう言われた。
「崋山殿の『慎機論』、拝見いたしました。あれは……幕府を案ずる故の書と存じます」
「それが分かっても、世はそうは捉えぬ」
正寧の語気は静かだったが、重かった。
「言葉は、火だ。灯せば温めもするが、放てば焼く。――若いおまえは、まだ灯し方を知らぬ」
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その夜、正弘はひとり筆を取った。
『記録すべきこと、語るべきこと、沈黙すべきこと。』
書きかけて、筆を止めた。
(では、私は……)
誰かの言葉を拾うべきか。
自分の言葉を探すべきか。
それとも、ただ灯火を見つめるべきか。
火は、ゆらりと揺れていた。
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[ちょこっと歴史解説]
▪️蛮社の獄とその時代
1839年――
それは、江戸幕府が外からの不安と内からの迷いに揺れていた時代だった。
前年には、大坂で大塩平八郎の乱が勃発し、民の怒りが爆発した。
海の向こうでは清とイギリスの間で不穏な気配が高まり、
異国船の来航も増えつつあった。
そんな中、幕府内では、言葉や思想そのものが“危険”と見なされる風潮が強まっていた。
この時、町奉行・書物奉行・目付などを兼ねていた**鳥居耀蔵**は、
思想・出版・学問に関する取り締まりの実権を握り、
密告や私的調査を駆使して、知識人を厳しく監視していた。
そして摘発されたのが、
蘭学者であり洋学的軍事知識を持つ渡辺崋山、
対外関係への洞察を深めていた高野長英らだった。
彼らは、単なる学問や進言を超えて、
幕府の統治に対して意見を述べたというだけで、
「不敬」「体制批判」として裁かれた。
この事件が後に「蛮社の獄」と呼ばれるようになる。
この時期の幕府中枢
当時、老中首座を務めていたのは土井利位。
しかし彼の政権は保守的で、明確な改革路線はなかった。
結果、鳥居耀蔵のような“強い個性”を持った中間層の官僚が独断で動ける空気があった。
老中の一人であった**阿部正寧(正弘の父)**も、
こうした幕政の内部に身を置いていたが、
直接的に是非を問うような記録は残っていない。
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蛮社の獄が意味するもの
この事件は、体制への不安が先行し、理ではなく恐れで動く政治の兆候だった。
外の脅威に対して、内なる“異物”を抑え込む――
そんな幕府の姿勢は、この後の開国論争や攘夷論の胎動にもつながっていく。
阿部正弘がこの時期、まだ静かに世を見つめていたとすれば、
この事件はきっと、彼の胸に「問い」を残したに違いない。
言葉とは何か。
異なる意見は排除されるべきなのか。
統制だけで、国を導けるのか。
――その問いは、数年後、老中としての彼の選択に結びついていく。
25/8/1 水野忠邦の記載を削除。




