019A. 声なき声を綴る
25/7/31 水野忠邦は、この時期、老中の職から離れており、関与しておらず、この事件の中心にいたのは、南町奉行:鳥居耀蔵であった。水野忠邦が主導していたとの記載は、間違いであるため、修正
(春の風が、やけに静かだ)
正弘は硯をすりながら、昌平坂の講堂で聞いたひとつの名を反芻していた。
「渡辺崋山、というのは……そんなにいけないことをしたんですか?」
同輩のひとりが、ぼそりと問いを発したとき、教官の手が止まった。
いつも滑らかに進む講義が、そのときだけわずかに揺らいだのを、正弘は見逃さなかった。
誰もが言葉を選んでいた。
語るべきか、黙るべきか。
いや、すでに多くは――黙ることを選んでいた。
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「――何を記している?」
父の声に、筆が止まる。
夜、灯火のもと。正弘は反射的に帳面を閉じた。
「講義の……復習です」
ふすま越しに、茶器の音がした。
それは、返事のようでもあり、沈黙のようでもあった。
「言葉は、火のようなものだ」
父は続けた。「どこで灯し、どこで消すか、それを誤れば家ごと焼ける」
阿部正寧。老中。
この江戸の頂にいる者のひとり。
だがこの家では、少しだけ、父でもあった。
「崋山や長英は……その火で、焼かれてしまうのでしょうか」
正弘の問いは、言い終わる前に震えていた。
「彼らは才を持ちすぎた。時に才は、それを支える器を越える」
「声をあげることが正しいとは限らぬ。沈黙もまた、ひとつの策だ」
ふすまの向こうで、父はまっすぐに言った。
「お前は……声を使う側になるだろう。だがその前に、沈黙の重さを知れ」
•
正弘は机の前に戻った。
硯の水は乾きかけ、紙の隅ににじんだ墨だけが残っている。
静かに帳面を開き、筆を走らせる。
渡辺崋山の名、講堂にて語られしことあり。
風聞のみにて記す。
記憶を、風にさらさぬために。
書き終えたとき、ふと気づく。
窓の外で、春の風がまた静かに吹いていた。
(声にできぬものは、筆に記す)
(それが、私にできる最初の“政”だ)
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[ちょこっと歴史解説]
▪️蛮社の獄とは
天保10年(1839年)、江戸幕府が蘭学者たちを弾圧した事件――それが「蛮社の獄」です。
この事件の直接の引き金となったのは、「モリソン号事件」に対する異論でした。
天保8年(1837年)、日本近海に現れたアメリカ商船モリソン号を、幕府は異国船打払令に基づき砲撃。
これに対し、一部の蘭学者たちは、「異国との対話の機会を逸した誤った対応だった」として、批判的な見解を私的な書簡や著作の中で述べていました。
その代表格が、田原藩士・渡辺崋山と、奥医師の家に生まれた高野長英です。
彼らは、蘭学者・知識人たちの集う勉強会「尚歯会」などを通じて交流し、
当時の国際情勢を見据えた、より現実的な対外政策の必要性を語り合っていました。
しかし、こうした動きに警戒を強めていたのが、南町奉行・鳥居耀蔵でした。
鳥居は、蘭学や洋学に強い不信を抱いており、知識人たちの動向を「幕政批判」「異国迎合」と見なして取り締まりに乗り出します。
こうして起こったのが、「蛮社の獄」です。
渡辺崋山は切腹を命じられ、高野長英は投獄されたのち脱獄・潜伏を経て自死。
そのほかにも、蘭学者や書店関係者が連座し、「言葉」が処罰の対象となる時代の空気が急速に強まりました。
――では、何が裁かれたのか?
この事件で裁かれたのは、実際の「行動」ではなく、思想や言論でした。
しかも、それらは広く公開されたものではなく、内輪の手紙や私的な記録、研究の成果であったにもかかわらず、
「幕政への不忠」とみなされ処罰の対象とされたのです。
これは、江戸幕府がいかに思想統制に敏感であったかを示す象徴的事件であり、
また、近代的な意味での「表現の自由」が、いかに脆弱であったかを物語っています。
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本作との関わり
作中の阿部正弘・川路聖謨・勝麟太郎たちは、いずれもこの時代の渦中にいた人物です。
当時まだ若年の彼らは、この「言葉が処罰される」という現実にどう向き合ったのか。
声を上げる者。
声を記す者。
沈黙を選ぶ者。
その誰もが、蛮社の獄という事件を通じて、「政治とは何か」「正義とは何か」を心に刻んでいったのでしょう。




