018KT.覚書
川路殿、聞いたか? 崋山さま、召し出しだそうだ」
唐突に声をかけてきたのは、勘定方の高瀬。帳簿を小脇に抱えたまま、顔を寄せる。
「渡辺崋山……高野長英もですか?」
「ああ、両名とも。長英なんざ、もう逃げる準備をしてるって噂だ」
声は小さいのに、どこか嬉しげな響きすら混じっていた。
川路は無言で手元の茶碗を見つめた。粥の湯気が目にしみる。
「異国書ばかり読み漁ってるから、こうなるのさ」
「……そうでしょうか」
「まあ、上の方々の考えることは我々には分かりませぬ。
でも“ああいう御仁が目立つと、組織の空気が乱れる”というのは、もっともらしい話だ」
高瀬はそう言うと、帳簿を掲げて軽く会釈し、足音も軽く去っていった。
川路は湯気の消えた粥に手をつけないまま、机の隅に置かれた一冊の辞書を取り出した。
蘭和辞書。崋山や長英と同じく、自ら手を動かして学んだ言葉の宝庫。
(……あの人たちは、“声”を使った)
(私は、仕える者。帳簿を書き、命令を実行し、物を言わぬ)
でも、それでいいのか?
めくった辞書のページの中に、ふと目に入った単語があった。
tegenstander
反対者。異を唱える者。
その意味の横に書かれた例文を、川路はゆっくり指でなぞった。
(私は抗えない。だが――忘れないことは、できる)
小机の灯火を引き寄せて、筆を取り、日記の余白にこう記した。
「今日、渡辺崋山、高野長英の名、勘定方にて噂となる」
「筆にて記す。これ、忘却への小さなる抗いなり」
書き終えても、机の上の灯は消さなかった。
それが、川路聖謨にとっての“声”だった。
▪️覚書
天保十年三月某日 覚
本日、勘定所内にて以下の風聞を耳にする。
一、田原藩士渡辺崋山、高野長英の両名、近頃異国書・意見書に関し、吟味方に召し出されしとのこと。
一、海防等に関し、政体批判に近き文言ありとの内聞あり。
一、江戸町方一部においても蘭書所持の制限、出入り調査の動きがありとの報。
一、一部者の間にて、蘭語学習および洋書購読に差し障りを懸念する声あり。
以上、いずれも未確認の噂話に過ぎず、事実の確認を要す。
されど、風聞の広がり、職内における言論の自粛傾向、憂慮すべき兆候と存ず。
必要あらば、蔵書・書肆の目録等について整理・報告の準備を進むべし。
右、備忘として記す。
勘定所属 川路聖謨
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[ちょこっと歴史解説]
▪️渡辺崋山という人
渡辺崋山は、田原藩の藩士でありながら、画家・思想家としても傑出した才能を発揮した人物です。
特に西洋画の技法を取り入れた写実的な肖像画や風景画は、日本美術史にも大きな足跡を残しています。
しかし彼の真の評価は、その政治的関心と行動力にあります。
幕末の不安定な時代にあって、崋山は「海防八策」などの著作を通じ、異国の脅威に対して現実的な対策を論じました。
これは、単なる学者の意見を超えた、国を憂う武士の実践的な提言でもありました。
ところがその発言が幕府内で問題視され、**天保10年(1839年)に起きた「蛮社の獄」**によって追及されることとなります。
崋山は、蘭学を通じて開国的な意見を持っていたとされ、その「異国に通じすぎた」言論が「不忠」と見なされたのです。
この事件は、日本の近代思想にとって**「言論封殺の象徴」**とも言える痛ましいものとなりました。
崇高な理想と政治の現実、その狭間で声を上げた崋山は、最終的に自ら命を絶ちます。
川路聖謨は直接関与してはいませんでしたが、
本編でも描かれたように、沈黙と記録のはざまで揺れる中堅幕臣として、崋山たちを複雑な思いで見つめていたはずです。
声を上げる者と、声を記す者。
それぞれのやり方で、時代と向き合っていたのかもしれません。
25/7/29 resister (英語 )=>tegenstander(オランダ語)に変更。




