017KR.静かなる食卓の向こうに
「にいさま、今夜も、お芋だけ?」
薄暗い台所の隅、炭火の上で蒸された薩摩芋の皮を、たえは指先で慎重にむいていた。
「贅沢言うな。食えるだけありがたいだろ」
麟太郎にいさまは、畳に座ったまま足を組んで、炊事場の天井を見上げていた。
口調はぶっきらぼうでも、声に力がないのがわかる。
「……だけど、にいさま、また昼も抜いてたでしょ。塾のとき」
「……うるさいな」
少し間を置いて、彼は俯いたままつぶやいた。
「塾のやつらはさ、みんな昼飯なんか当たり前に食ってんだよ。おれだけ腹が鳴って、みっともなかった」
「……じゃあ、わたしの芋、半分あげる」
たえが差し出した芋は、小さくて皮も焦げていたが、それでも蒸気がほのかに甘かった。
にいさまは何も言わずにそれを受け取ると、ゆっくりかじった。
「あのさ、たえ」
「なに?」
「大塩平八郎って、知ってるか?」
「え、なんか……大坂で暴れた人?」
「暴れたんじゃねえよ」
にいさまの声が少しだけ鋭くなる。
「本を売って、米を買って、飢えた人に配って、そんで……足りなくて、戦ったんだ」
「……にいさま、それ、先生に聞いたの?」
「ああ。でも、先生たちは“反乱だ”って言ってたよ」
「だけど、おれは、あれ……少し、かっこいいと思った」
そう言ったあと、にいさまはもう一口、芋をかじる。
その背中を、たえは少しだけ誇らしく思った。
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[ちょこっと歴史解説]
▪️天保の飢饉 ― 江戸の空腹、静かな絶望
本作の舞台である1838年(天保9年)は、まさに江戸時代の三大飢饉のひとつ、
**「天保の大飢饉(1833〜1839年)」**のただ中にあります。
発端は1833年、冷夏と長雨によって稲が育たず、全国各地で不作が始まりました。
翌年には米価が急騰し、庶民の暮らしは一気に逼迫します。
被害はとくに東北・北関東・畿内で深刻で、農民たちは収穫を得られず、
都市部では打ちこわしや飢民の流入が相次ぎました。
江戸のような大都市でも、「米があっても買えない」「米屋に並ぶ」「昼を抜く」といった生活が当たり前になり、
武士の家でも配給が減らされ、下級武士や旗本の子弟が空腹のまま学問所に通うことさえあったと記録されています。
幕府も蔵米の放出や御用金の徴収などで対応を試みましたが、根本的な救済には至らず、
こうした中で、1837年には「大塩平八郎の乱」が勃発します。
飢えはただの「食糧問題」ではありませんでした。
それは「政治への不信」「支配への怒り」「生きることへの不安」と直結する、
時代全体を覆う“静かな絶望”の象徴でもあったのです。
本作の中で描かれる、阿部家の“質素な米”、勝家の“芋ひとつ”――
それぞれの生活の奥に、この飢饉の影が、確かに揺らいでいることを、感じ取っていただけたなら幸いです。




