017A.静かなる食卓の向こうに
「……ん? 今日の米、少し……芯がありますね」
阿部正弘は、箸先でごはんを軽く突きながらつぶやいた。
白米はわずかに黄ばみ、口に含むとやや硬い芯が残っていた。
奥の襖の陰から控えていた年配の家臣が、申し訳なさそうに進み出る。
「恐れながら、近頃は上方よりの良米が届きにくく……。
江戸でも、上質の米はなかなか手に入りませぬ」
「構わぬよ」
低く落ち着いた声でそう返したのは、父・阿部正寧だった。
湯気の立つ茶碗を手に、目を閉じて一拍置いて語る。
「この米の味が、今の世の味ということだ」
そのとき、奥の襖が音もなく開いた。
母がそっと座敷に入り、何も言わずに正弘の隣に膳を構える。
静かに箸を取り、味噌汁をひと口すする。
正弘が父の方を振り向くと、正寧は米を見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。
「……まさひろ。お前は幼かったから、覚えておるまいが――
あの“大塩の乱”が起きたのも、こういう飯を食っていた頃だ」
「……大坂の、あの元与力の?」
「うむ。大塩平八郎。義に厚い男だった。
飢えた民に心を痛め、蔵を開かせよと訴え、
それが聞き入れられぬと知るや、町に火を放った」
父は一瞬、茶碗を置き、遠くを見るような目をした。
「……正しいか、誤りか、ではない。
腹を空かせた者の叫びが、届かぬ世の仕組みに、火がついたのだ」
母は無言のまま、そっと椀を置いた。
その手が、一瞬だけ正弘の袖に触れる。
視線が合うと、わずかに微笑むような、けれど奥に沈む光を持った目で、母は彼を見つめた。
「父上。……今の幕府は、その声を聞けておりますか?」
正弘の問いに、正寧は口の端をわずかに上げ、しかしすぐに真顔へと戻った。
「幕府というものは、大きすぎる。民の声が届く前に、帳簿や掟の音でかき消されることもある。
けれど、それを知っている者が、一人でも内にいれば、違うかもしれぬな」
正弘は、あらためて米を口に含んだ。
芯が残るその白さに、江戸の空気と民の暮らしが滲んでいるように思えた。
「……この味、忘れません」
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[ちょこっと歴史解説]
▪️大塩平八郎の乱
物語の中で父・阿部正寧が語った「大塩の乱」。これは史実において、
1837年(天保8年)、大坂(現在の大阪市)で実際に起こった出来事です。
大塩平八郎は、かつて大坂町奉行所に仕えた与力(上級役人)であり、
読書好きで、儒学にも通じた高潔な人物として知られていました。
しかし、天保の大飢饉による米の高騰と庶民の飢え、
そしてそれを顧みぬ幕府の対応に強く憤り、
自らの蔵書を売って米を買い、貧民に施したといわれます。
やがてその憤りは爆発し、門弟らとともに挙兵。
町に火を放ち、幕府への抗議として蜂起します。
しかし計画は発覚し、すぐに鎮圧。平八郎は自害。
「元役人の反乱」という異例の事件は、当時の幕府に大きな衝撃を与えました。
ちなみにこの乱は、幕臣や知識人のあいだでも同情の声が多かったといわれます。
それは、平八郎の怒りが私利私欲からではなく、
飢えた人々を救いたいという**義憤**から発したものだったからです。
今回、阿部家の食卓にその記憶を重ねたのは、
まさに**「政とは誰のためにあるのか」**という問いを、
若き阿部正弘の胸に芽生えさせたかったからでした。




