(幕間)誰のものでもない日記
今日は、雪が降った。
積もるほどではないが、軒の瓦がうっすら白くなる程度には、空気が冷えていた。
私は、墨をすりながら、それを静かに見ていた。
この国は、美しい。
だが同時に、脆い。
私は、そう感じる。
この目で見てきたこの国は、どこか──どこか、時が止まっているように見えるのだ。
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朝の勤めを終えたあと、寺の縁側で筆を持った。
筆先を紙の上に置きながら、結局、今日も日記は三行で終わった。
雪 墨濃し 風にて凍る
これが、今の私の気持ちのすべてだった。
ただ、冷えている。
ただ、言葉を吐けば、霧になって消えていく。
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周囲は、私を「静かな者」だと思っている。
書を読み、花をいけ、茶をたて、黙して語らず──そうした者だと。
だが、本当の私を、彼らは知らない。
私は──叫んでいる。
この世界の理不尽と、偽りの平和と、変わらぬ制度に。
口をつぐんでいるのは、沈黙が最も効く場を、私は心得ているからだ。
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この世界に来て、どれほど経ったか。
生ま変わったのは幼い頃だった。現代の記憶も、半ばは霞みかけている。
だが、名だけは忘れていない。
この時代に、何をなすか。
それを決めるには、まだ材料が足りない。
けれど、静かに──確かに──機は熟しつつある。
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ふと、書棚の奥にあった一冊の漢籍が開きっぱなしになっていた。
そこには、こう書かれていた。
「静以修身、倹以養徳」
静かにして己を修め、倹しくして徳を養う。
……そうか。私は、まだ“修めている”段階なのだ。
雪はいつか、溶ける。
その時に、芽吹けるかどうかは、自分次第。
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私は筆を置いた。
今日もまた、語らない。
この声が必要とされる、その時まで。




