016A.夜更け、灯火のもとで
夜。
部屋の中は、行灯の淡い明かりだけが照らしている。
外からは、風に揺れる竹の葉音と、どこかで虫の鳴く声がしていた。
私は畳の上に座り込み、ふうと長く息を吐いた。
手には今日一日で書き写した紙が数枚――ぐにゃぐにゃの筆文字が、情けなく並んでいる。
「……私、ほんとにバカだったな」
ぽつりと、誰に向けるでもなくつぶやく。
転生とか、江戸時代とか。修学旅行中に突然こんなことになるなんて、そんな漫画みたいな展開が本当にあるとは思ってなかった。
だけど――。
「これは、夢じゃないんだよね」
手に走った筆の感触。
白いご飯の甘み。
侍女の視線。
父の重みのある声。
そして、今日すれ違ったあの男の、何かを訴えるような目。
全部が現実で、全部が「ここ」で生きている証だった。
「じゃあ、やるしかないんだ」
この体は阿部正弘。将来、幕府の要職につく家の跡取り。
でも中身はただの女子高生。しかも特に成績がいいわけでも、リーダーシップがあるわけでもない。
それでも――この世界で、私は“私”として生きなきゃいけない。
「……どこかで、みんなも生きてるよね」
そう信じたかった。
あの、いっつも静かな子。無駄にテンション高かった男子たち。みんなも、どこかでこの時代を生きているはず。
もし、また出会えたら――今度はちゃんと、言いたいことがある。
「私、“阿部正弘”として、この時代をちゃんと見てみたい」
行灯の火がゆらゆらと揺れる。
それはまるで、静かに燃える意志のように、部屋を照らしていた。
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[ちょこっと歴史解説]黒船前夜
幕末といえば「黒船」──ですが、実はそのずっと前から、日本は少しずつ揺れはじめていました。
▪️ 外からの圧力、じわじわと
ペリーの来航(1853年)の前にも、ロシアやアメリカの船が何度も接触を試みています。
•1792年:ロシアの使節・ラクスマンが来航
•1837年:アメリカのモリソン号が通商を求めて来るが追い返される
•1846年:アメリカ海軍のビッドル提督も開国を求めるが、やはり拒絶
つまり、幕府はずっと「来るな」と言い続けていた。
けれど、海の向こうの大国たちは、じわじわと“その時”を近づけていたのです。
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江戸の中も、不安だらけ
•天保の飢饉(1830年代)で人々は飢え、一揆や打ちこわしが頻発
•改革(天保の改革)をやってみるも、成果はあがらず人心は離れる
•経済も政治も、「このままじゃまずい」と誰もが感じ始めていました
老中たちも、答えが見つからず困っていた時代。
けれどそんな中、ある若者が現れます──阿部正弘、25歳。
彼が目を向けたのは、「この先に来るかもしれない嵐」でした。
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嵐の前に、目を開いた人たち
阿部は西洋の知識や翻訳、海防の必要性に目を向け、
川路聖謨、勝麟太郎、永井尚志といった“開明派”の若者たちを集め始めます。
彼らはまだ、誰にも知られていない。
でも、歴史の大きな波の前に、ひそかに準備を始めていたのです。
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この物語が描いているのは、
まだ誰も“黒船”を知らない頃、世界の風に気づいた者たちの始まりです。
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夜にもう1話、投稿します。




