015KR.誰?
夕暮れの塾裏。井戸のそばで、俺は洋書の図版を筆でなぞっていた。
帆船の設計図。舵と船体の比率。目をこらして書き写していると、手がかじかんできた。
──こんなの、前の世界ならiPadでズームして描けたのに。
そう思って苦笑する。でも、ここにはタッチペンも検索ボタンもない。
「へえ。お前、それを写してるのか。珍しいな」
声に振り返ると、着流し姿の青年が立っていた。
二十代前半くらい。静かな口調と落ち着いた目。
どこかで見た気がして、目を細めた。
「川路だ。川路聖謨」
名乗られた瞬間、なにかが胸に引っかかった。
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──修学旅行の、二日目の午後。
4人の班で、観光地をタクシーで巡っていた。
あの時の運転手さん。歴史マニアで、話し方が独特で……妙に博識だった。
「歴史ってのはね、表と裏があるんですよ」
「幕末はね、正義の味方が多すぎて、困っちゃうんです」
そう語りながら、道案内より蘊蓄の方が長かった。
俺たちは「なんか濃い人だな〜」って笑ってたけど、でも悪い気はしなかった。
──その声。今、目の前のこの人の声と、すごく、似てる。
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「勝です。勝麟太郎。……航海の本に興味があって」
「航海か。ずいぶん先を見てるな。いい目をしてる」
並んで腰を下ろし、少し話すことにした。
蘭語の辞典、図版の話、塾の先生のクセ──話してみると、不思議と波長が合った。
「“メモ”って書いてあるな。それは何のことだ?」
「あっ、えっと……日記みたいなものです。自分なりの書き方っていうか……」
「なるほど。勝流の記録法、というわけか。面白い」
表情は柔らかい。でも、やっぱり何かを“知ってる目”だった。
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「昔──運転手とか、してませんでした?」
俺はとうとう聞いてしまった。
川路は、ほんの一瞬だけ間を置いた。
そして、涼しい声で返す。
「運転手?」
「……いえ、気のせいです。夢で見たのかも」
「夢は奇妙なものだ。前の世界と混ざるような気がする」
……今の、どういう意味?
この人は気づいてる。俺が誰かも、自分が誰だったかも。
でも、絶対にそれを口にはしないと決めてる。
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「なぜ海を見たい?」
「……なんとなく。先が知りたいんです。こっちの世界の、もっと先が」
「なら学び続けるといい。海の地図は、いずれ未来の鍵になるかもしれん」
そう言って、川路は立ち上がった。
行きかけて、俺の方をふり返る。
「勝──お前、名前まで引っ張られたのか?」
「え?」
「いや、何でもない。ただの感想だ」
それきり、彼は背を向けて去っていった。
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夜。帳面を開き、こっそり書き加える。
川路聖謨(たぶん元:運転手)
話し方、目の動き、沈黙の使い方──同じ
名前まで“引っ張られた”のは偶然か、運命か
でも、向こうはそれを肯定も否定もしない
→たぶん、俺たちは同じ方向に向かってる
会話の中で、“あの人”がいた気がした。
それだけで、今日の空は少しだけ広く感じた。
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[ちょこっと歴史解説]
海の向こうを夢見た時代
江戸時代の日本では、庶民の多くは海を「渡るもの」ではなく「囲まれているもの」として捉えていました。
それでも、ほんの一握りの人々ですが、海の向こうを“見よう”としていた人がいたのです。
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◾和船と西洋船──形のちがい
江戸の船は基本的に“和船”。
・帆は一枚
・構造は左右対称ではなく、方向転換が難しい
・波に弱く、外洋(遠くの海)にはほとんど出られません
一方、西洋の船──オランダ船や黒船など──は、
・複数の帆とマスト
・後部に舵があり、操縦性が高い
・耐久性があり、長期の航海が可能
勝が写していたのは、まさにこの「異国のかたち」をした船。
江戸の人間には“異様”にすら見えたその図は、未知の世界そのものでもありました。
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◾海図と“世界の広さ”
江戸後期になると、蘭学者たちはオランダ語の航海書や地図帳に触れるようになります。
これらには、緯度・経度、航路、世界地図、風の流れ……江戸の地図とはまるで違う“動きのある情報”が記されていました。
勝海舟も、若き日に西洋の海図を手に入れ、自分の手で写して、学び、覚えたと伝えられています。
「日本って……こんなに小さいんだ」
そんな衝撃を、勝自身が受け取った瞬間が、確かにあった。
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現代ではボタン一つで見られる“世界地図”が、
当時の彼らにとっては、想像と勉強と勇気の結晶だったのです。




