014KR.蘭学塾って、学費高くね?
「三両」
その一言で、口の中の麦飯が詰まった。
「えっ、さんりょうって……あの、金の、ですか?」
「そうだ。月謝だよ。字も蘭語も教える塾となれば、当然そのくらいはかかるさ。いまどき寺子屋じゃあるまいし」
塾頭の男が、涼しい顔でそう言った。
俺は、咳き込みながら、水がわりのぬるい煎茶をあおる。
三両って、いくらよ。
いや、体感だと──牛丼150杯分くらい。
そんな感覚のまま、俺は畳の上で硬直していた。
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時は少し戻って、その朝。
いつも通り、焦げた干物と沢庵と麦飯の三点セット。
「なあ、お母さん、蘭学塾のことなんだけど」
「……まだ言ってるの? そんなにお金かかるんじゃ、うちじゃ無理だよ。
そもそも、オランダ語なんてどこで使うのさ?」
ごもっともな意見だが、それがこの時代の“最先端”なのだ。
「えっと、ほら、将来グローバルな……あ、いや、異国とやり取りができる役人とかさ」
「ぐろー……なんて?また兄さんの変な言葉が出た」
妹が首をかしげながら、沢庵をかじる。
「“グローバル”ってのは……世界に羽ばたくって意味で……いや、まあ、つまり偉くなれるってこと」
「最初からそう言えばいいのに」
妹の口調は冷ややかだが、俺の中では火がついていた。
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そして塾。
なんとか頼み込んで、箕作阮甫の塾に顔を出す許可をもらった。
「読むがいい」
塾頭が差し出したのは、古びた洋書と辞書。それを机に広げると、見たことのない文字列が目に飛び込んでくる。
de mensch is vrij geboren
「……で、めんす……?」
「“人は自由に生まれる”とでも訳すかな」
塾頭が横から呟いた。
俺は、その言葉に電気が走ったような衝撃を受けた。
人は自由に生まれる──
でも、この江戸の貧乏暮らしに自由なんてあるか?
いや、あるかもしれない。
この文字の先に、“なにか”がある気がする。
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その帰り道。
塾の前で帳面にこっそりメモを取っていると、見知らぬ男に声をかけられた。
「お前、それ……字、読めるのか?」
「うん。まあちょっとは。書き取りしてるだけ」
「へぇ、学があるのか。見たとこ、身なりは良くねえが……」
──ああ、そうか。
俺は**“貧乏旗本”=微妙な中間層**ってやつなんだ。
武士だから身分はある。でも金がないから、町人からも「貧乏くさい」と見られる。
「……人は自由に生まれる、って言葉があったんだ」
俺はポツリとつぶやいた。
「ほう。そいつは……気持ちのいい言葉だな」
見知らぬ男はそう言って、笑って去っていった。
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夜。家に帰ると、机の上に干したての洗い張りの反物が置いてあった。
「筆写の仕事、増えたらしいよ」
母がぽつりとつぶやく。
「ほんと? やった……いや、いやっしゃ!」
「その“やった”って何?……ま、元気ならいいけど」
妹の顔は呆れ顔。でも、心なしか口元がゆるんでいた。
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明日もまた、字を書く。目をこらす。
その先に何があるかわからないけど──
“この世界で自由を手に入れる”
そのために、まずは一文字ずつ進むのだ。
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[ちょこっと歴史解説]
▪️江戸の学びと塾って?
江戸時代にも“私塾”と呼ばれる学び舎がたくさんありました。
今回登場した「箕作阮甫」は実在の人物で、蘭学(オランダ語で学ぶ西洋学問)の先駆者のひとりです。
学費の相場
•寺子屋なら無料〜米一升程度
•しかし蘭学塾や医学塾は高額(数両〜十数両/年)
オランダ語の重要性
•黒船来航の前後、西洋の情報はほぼオランダ語資料から得ていた
•「世界を知りたければ、蘭学を学べ」が常識だった時代
貧しくても、知識を武器にする者たちがいた──勝麟太郎も、まさにその一人です。




