114A. 灯の揺らぎ
時:嘉永六年六月下旬 江戸城・老中詰所、のち一人書院にて
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会議が終わったころ、日はとうに沈んでいた。
江戸城の石垣は昼の熱を残しているが、
空気はどこか冷たかった。
評定所での怒声、圧し寄せる恐れ、
それを沈黙で押し返した自分――
それらがまだ胸の奥で静かな波を立てている。
「……火を吹く船、か」
阿部は独り言のように呟いた。
浦賀の海で、どれほどの恐怖が今も渦巻いているのか。
そして、その波はどれほど早く江戸へ届くだろうか。
老中詰所の灯火は小さく揺れていた。
紙障子に落ちる影が、わずかに震える。
扇を置き、筆を手に取る。
墨を含ませると、それだけで胸の中が静かになった。
紙に向かい、ゆっくりと筆を走らせる。
――恐れぬことは、愚かではない。
――恐れを知り、理に変えること。
――それを以て、国を守る。
書きながら、ふと笑みが漏れた。
自分自身に言い聞かせているようで、どこか滑稽だ。
扇を閉じたときの静寂。
諸老の怒声を沈めた一言。
そのすべての裏側に――
阿部自身の恐れがあったことを、誰が知るだろう。
「……私は、まだ若い」
灯火がふっと揺れた。
その小さな揺らぎに、阿部は自分の胸の揺れを重ねた。
国を背負うには軽すぎる腕だ。
だが、その腕しかないのなら、
おのれが揺らいでも、前に進むしかない。
筆を置き、灯の前で目を閉じる。
墨の匂いが鼻をかすめた。
遠く、江戸の町のざわめきが風に乗って届く。
「……見よう。
恐れを、形あるものへ」
灯を吹き消すと、
暗闇は驚くほど静かだった。
その静けさの中で、阿部はそっと息を吸った。
明日もまた、声の渦が押し寄せる。
だが今だけは、恐れと理との狭間に身を置いてよかった。
人であることを忘れずに、
また“座”へと向かうために。
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[ちょこっと歴史解説]
黒船来航直後、幕府首脳部は動揺し、
多くの老中が開戦か攘夷を叫ぶ状況にあった。
そんな中で阿部正弘は、年齢に似合わぬ静謀と理性をもって
「まず知ること」「交渉の余地を探ること」を判断した。
しかし、阿部自身も当時二十代後半〜三十代前半の若さで、
黒船という未知の危機を前に、
“個人としての恐れ”を抱えていたことは間違いない。
その恐れを抱えながら、それでも前へ進んだことこそ、
彼の政治的勇気の源であった。




