113A. 恐れぬ座
時:嘉永六年六月下旬 江戸城・評定所
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評定所の広間は、昼だというのに薄暗かった。
障子越しの光が揺れ、畳の上に白い影を落としている。
「異国船、なお浦賀に留まり、開国を求むとのこと!」
「火を噴かれれば江戸は終わりぞ!」
「攘夷を掲げて退けるべし!」
声が、音ではなく“熱”になって広間を満たしていた。
怒り、恐れ、焦り――
どの声も、理の形を持っていない。
阿部は静かに座していた。
扇を膝に置き、瞼をわずかに伏せる。
耳には入る。しかし、動かない。
怒声がぶつかり合う。
その底で、ひとつの感情が脈打っている。
――恐れ。
それが形を変えて、“攘夷”という旗になっているにすぎない。
誰かが叫んだ。
「老中首座! なぜ黙すのか!」
別の者が続ける。
「いま決せねば、国が乱れますぞ!」
「若輩が座に就いても、肝が据わっておらんのか!」
侮り、威圧、過剰な恐怖。
言葉は刃となり、若い阿部へ突き刺さろうとした。
その時。
阿部は扇をゆっくりと開き、軽く一つだけ、指で畳を叩いた。
――音が、広間の空気を変えた。
怒声が止まる。
まるで、その一拍に“呼吸”を取られたように。
阿部はゆっくりと顔を上げた。
視線は静かで、しかし鋭かった。
「恐れは、声を荒げても消えませぬ」
低く、広間の隅々まで届く声で言った。
「恐れは、理で制するもの」
広間が、静まった。
怒りを帯びていた者も、息を呑む。
「火を放てば勝てるか。
退ければ国は守れるか。
叫びは、答えを生みませぬ」
阿部は扇を閉じ、膝に置いた。
「まず、知るのです。
相手は誰か。
何を求め、どの理で動いているのか」
そして、言葉をひとつ区切って続ける。
「怒りは国を守らぬ。
理こそが、国の舵を取る」
その瞬間、
広間にいた老中たちの視線が、初めてひとつの方向に揃った。
若い老中の言葉は、叫びではなく、
**静謀**であった。
阿部は再び沈黙に戻った。
だが、その沈黙はもはや恐れではない。
場を支配する沈黙だった。
障子の外で、一陣の風が吹いた。
遠い浦賀の海で、黒い煙を上げる船を映しているかのように、
白い光がわずかに揺れた。
そして、この日の会議は、
――若き老中が“国家の舵”を初めて握った瞬間となった。
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[ちょこっと歴史解説]
黒船来航後の評定所では、開戦を主張する声が多数を占めていた。
だが、当時わずか数十代の若さで老中首座となった阿部正弘は、
「攘夷」や「威嚇」に流されず、
情報収集・交渉・理による判断を方針とした。
彼は諸大名・有識者に意見を求め、海防政策を刷新し、
若手登用を進めるなど、柔軟かつ合理的な政治を行った。
この“恐れを理に変える政治”こそが、彼の最大の特徴である。




