110KR2. 帆影の下で(江戸)
浦賀の黒は、海だけのものではなかった。
江戸へ戻ると、街そのものがどこか黒ずんで見えた。
「浦賀が焼けたらしい」
「化け物の船が火を吹いたとか」
「幕府が隠しておるに違いない」
言葉が街を駆け抜ける。
魚屋が団扇で風を送り、瓦版屋は筆を止める間もなく新しい“恐怖”を書き散らしていた。
女たちは井戸端で不安を語り、子どもは「異人、異人」と叫びながら走り回る。
恐怖は、見えぬものを語るときに一番よく育つ。
笑いと怯えが入り混じった街のざわめきの中で、勝はひとり耳を澄ました。
――見た者は少ない。
だが、語る者は多い。
「見ぬ者の声が、国を動かすのか」
小さく呟いた背後から、静かな声が返った。
「見た者が語らねば、理は死ぬ」
振り向くまでもない。
聞き慣れた声だった。
「先生……」
「浦賀で見たというのは、おぬしか」
佐久間象山は、門前に立っていた。
羽織の裾を風がはためかせ、眼差しには理と火が共に宿っていた。
「どうだった、黒き船は」
「……美しいと思いました」
「うむ。恐れぬ目は、理の始まりだ」
塾の門の内では、書生たちが航海図を広げていた。
“蒸気”“羅針”“鉄”――口々に、未知の言葉が飛び交う。
熱気。だがそこにあるのは怒りではなく、知りたいという欲だった。
象山は塾の中を一瞥し、言った。
「麟太郎、見た者が語るのだ。
見ぬ者の声に国を任せるな」
勝は深く頷き、筆を握った。
紙の上にまず一文字――「黒」。
墨が滲み、ゆっくりと広がる。
それは、恐れでも怒りでもない。
理へと向かう、最初のしるしであった。
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[ちょこっと歴史解説]
黒船来航後、江戸市中では瓦版が飛び交い、異国上陸の噂が民衆の間に広まった。
恐怖と好奇心が入り混じる中、学者や書生たちは“理”でこの出来事を解こうと試みた。
その代表が佐久間象山であり、蘭学と兵学をもって黒船の構造を分析した。
勝麟太郎(のちの海舟)は象山に学び、「見たものを理で語る」という姿勢をこの時期に深く刻み込んだ。




