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108A. 夜明け前

夜がまだ明けきらぬ江戸城の中、

障子の隙間から、白みかけた光が細く伸びていた。


阿部正弘は、文机の前にひとり座っていた。

机の上には、長崎・浦賀・蝦夷、

そして彦根から届いた報の束。


どの封にも、手の温もりが残っているような気がした。

川路の筆、勝の志、井伊の静。

それぞれの報が、いまここに集っている。


(備えは、形になった。

 あとは、時を待つだけだ。)


蝋燭の火が小さく揺れ、

墨の香が部屋に漂う。


阿部は一枚の白紙を取り出した。

そして、ゆっくりと筆を入れた。


『国は眠らず。

 夜明けを恐れず、

 静かに立つ。』


その筆致は、穏やかで、揺るぎがなかった。



外では、鶏の声が聞こえた。

まだ薄闇の中。

庭の梅は散り、若葉が芽を出している。


老中詰所の方から、足音が近づく。

「殿、浦賀より急報――異国船、江戸湾沖に姿を現したとのこと。」


小姓の声が震えている。

阿部は筆を置き、深く息を吸った。


(来たか。)


机の上に広げた地図の上で、

指がゆっくりと浦賀をなぞった。

その先にある“黒い波”を、

まだ誰も知らない。


「落ち着け。まず報を整えよ。」

阿部は静かに言った。


小姓が走り去る。

残された静寂の中で、

阿部は己の鼓動の音を確かに聞いた。



夜が明ける。

障子を開けると、

淡い光が庭の砂利を照らした。

光の筋が、まるで細い航路のように伸びている。


(これは“終わり”ではなく、“始まり”だ。)


部屋の隅に置かれた阿部家伝来の甲冑が、

かすかな朝の光を受けて鈍く光る。

かつて武で国を守った者たちの象徴。

だが、阿部はその前で頭を下げた。


「今の時代は、筆と心で国を守る。」


その言葉を誰に向けたのか、

自分でもわからなかった。

だが、確かに胸の奥で何かが整った。



やがて、外の空が明るくなる。

庭を渡る風が、昨日までの寒気を追い払うように吹いた。


遠くで鐘が鳴る。

新しい一日の始まりを告げていた。


阿部は机の上の白紙をもう一枚取り、

短く書き記した。


『黒き波、来たる。

 恐れず、備えよ。

 夜明けは、すでに此処にあり。』


筆を置き、深く息を吐いた。

顔を上げたとき、障子の外はすでに朝だった。



[ちょこっと歴史解説]

「夜明け前」──黒船来航の直前と阿部の覚悟

嘉永6年(1853)初夏、浦賀沖にペリー率いるアメリカ艦隊が姿を現す。

その前後の数ヶ月、阿部正弘は老中首座として、

すでに全国の海防体制と報告網を整え、

「筆と情報で国を守る」備えを整えていた。

黒船の来航は突然の事件ではなく、

この「備え」の集積の先にあった必然だったともいえる。

“夜明け前”の阿部の静けさは、

まさに時代の境目に立つ者の静かな胆力を象徴している。


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