107KR. 港の夢
春の江戸。
築地のあたりはまだ潮の香が濃い。
朝の光に混じって、どこか遠くの国の匂いがする。
勝麟太郎は、舟大工の棟梁から譲り受けた
小さな木製の羅針盤を手のひらで転がしていた。
針はゆらゆらと北を指す。
その震えが、彼の胸の奥の鼓動と重なる。
(長崎では奉行が異国の船と向き合い、
江戸では阿部様が風を束ね、
俺は、ここで何をしている?)
塾の仲間たちは相変わらず机に向かっている。
だが、麟太郎の心だけが外へ向かっていた。
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その夜、
佐久間象山の塾で、海防の講義が開かれた。
「防ぐとは、備えることだ。
備えるとは、恐れぬことだ。」
象山の声は、油の灯を揺らす。
「阿部伊勢守が“応接の座”を設けた。
国が風を測り始めたのだ。
では、我々は何をする?
風を読む者となれ。
海を恐れるな。海を描け。」
麟太郎は筆を持つ手を止め、
象山の言葉を胸に刻んだ。
(海を描け――
誰かが筆で、誰かが舵で。)
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翌朝、
川沿いに立ち、船の帆を見上げた。
帆布が風を受ける音が、心臓の鼓動のように響く。
近くにいた漁師の老人が笑った。
「坊主、海を見てる目だな。」
「え?」
「行きたくてたまらねぇ顔だ。」
麟太郎は少し笑って頭を下げた。
「まだ船の乗り方も知りません。」
「そんなもん、海が教えてくれるさ。」
風が吹き抜ける。
帆が膨らみ、船が動いた。
たったそれだけで、世界がひとつ動いた気がした。
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夕刻、塾に戻ると、
象山が机の上に広げていた一枚の紙を見せた。
粗いが、異国式の船体図だ。
「麟太郎、これを見ろ。
これが“蒸気船”というものだ。
火を以て水を動かす。」
麟太郎は紙を食い入るように見た。
「……火で?」
「そうだ。人の知が海を越える時代が来る。」
象山の声が低く響く。
「だが、誰かが橋を渡らねばならぬ。
知を持ち、筆を持ち、そして舵を取る者が。」
麟太郎は静かに頷いた。
(俺は、海を知りたい。
筆でも言葉でもなく、
波と風の中で。)
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夜。
部屋に戻り、
彼は灯の下で航海書を開いた。
ページの隙間に、小さな文字を記す。
『港の夢、此処に始まる。
筆をもって備え、
舵をもって時代を渡る。』
その瞬間、
障子の隙間から春の風が吹き込み、
灯が小さく揺れた。
まるで、どこか遠い海が呼んでいるようだった。
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数日後。
麟太郎は塾の仲間に言った。
「海を見に行こう。
実際の港を、この目で。」
皆が驚く。
「え、まさか浦賀か?」
「そうだ。」
笑いとざわめきの中、
麟太郎は立ち上がる。
「筆の上だけじゃ、国は守れねえ。
海の風を知らなきゃ、“備え”にはならねえんだ。」
港へ向かう足取りは、
初めて自分の意思で風を選んだ者の歩みだった。
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[ちょこっと歴史解説]
勝麟太郎、初めての「海防」意識
嘉永期、勝麟太郎はまだ若く、蘭学者として修行中であったが、
この頃から「学問は実地に活かされるべき」と考えるようになる。
師の佐久間象山は、火力や蒸気機関の知識を伝え、
“海防=学問+行動”という新しい視座を示した。
勝が後に長崎海軍伝習所へ赴く決意を固める下地は、
まさにこの時期に形成されたものである。
筆を離れ、海へ――その最初の“夢”が、ここに芽吹いた。




