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105A. 報をつなぐ者

春の雨が、

江戸城の石垣を濡らしていた。

その静けさの中で、

阿部正弘は文机に向かっていた。


机の上には、三通の報。

長崎からは川路聖謨。

浦賀からは海防見分役。

彦根からは井伊直弼。


それぞれの筆跡が違う。

けれど、どれもが“風”のことを語っていた。


(西の海では異国船。

 東の浦では砲台。

 近江では、静けさの中に備え。

 すべてが、一つの呼吸のように動いている。)



廊下を渡る足音。

小姓が現れた。

「殿、川路奉行より使いが参っております。」


「通せ。」


現れたのは若い通詞上がりの使者だった。

風に濡れた衣を直し、深く頭を下げる。


「長崎より、往復の報を一巻にまとめる旨、

 奉行様より直に。」


封を解く。

見慣れた川路の筆。

その中に、見覚えのある言葉があった。


『筆にて橋を架け、風を通す所存。』


阿部は目を細めた。

彼の手の中で、墨がまだ新しく光っているように見えた。



評定所では、

老中たちが今日も書面を積み上げていた。


「阿部殿、あの“応接の座”とやら、

 費用はいかほどかかるのだ?」

「通詞など増やしても、異国は引き返しませぬぞ。」


皮肉のような声がいくつも飛ぶ。


阿部は静かに答えた。

「費用は必要なだけ。

 国を守るための算は、惜しむべきではありません。」


短い言葉だった。

だが、声の調子があまりに落ち着いていたため、

その場の空気がふと沈んだ。


「風を拒むより、風を測るほうが先でございましょう。」


その言葉に、誰も続けなかった。

沈黙が、広間を満たした。



会議を終えたあと、

阿部は長廊下を歩きながら、

手にしていた巻物を開いた。

浦賀の見分図、蝦夷の測量、長崎からの記録。


そこに筆を入れる。

三つの線をつなげて描く。


それは地図の上の線ではなく、

この国の“思考の線”だった。


(記す者がいて、学ぶ者がいて、

 静かに備える者がいる。

 ならば、我が務めは、それらを結ぶことだ。)



夜、執務の間に戻る。

机の上には蝋燭の灯が一つ。

風が障子をわずかに揺らした。


筆を取り、川路に宛てて書く。


『風は確かに往き来しております。

 この往復こそ、国を支える息なり。

 報を絶やさず、知をつなぎ、

 民を惑わさぬよう努められたし。』


そしてもう一通。

井伊へ。


『静けさもまた、備えのひとつ。

 春の枝のごとく、時を待つ胆を失うな。』


墨を乾かす間、

阿部は窓の外を見た。

月が雲の合間から現れ、

雨のあとを照らしている。


「報とは、風の足跡。

 人の手で、それを消してはならぬ。」



朝が来た。

侍従が部屋に入る。

「殿、各所への伝令、出立の刻です。」


阿部は頷き、

筆を置いた。

机の上には、

江戸から、長崎へ、彦根へ、浦賀へ――

四つの封書が並んでいた。


外では、

風が南から吹いていた。

春の気配を孕んだその風は、

まるで、阿部の机上から吹き出したかのようだった。



[ちょこっと歴史解説]

「報をつなぐ者」──情報の網としての幕政

嘉永期、阿部正弘は、国内外の報を迅速に掌握するため、

「外国応接掛」や「海防掛」を創設し、

長崎・浦賀・蝦夷からの報告を中央で統合した。

これまでの幕府は縦割りの報告体制で、

現地の声が届くまでに数ヶ月を要したが、

阿部の下で初めて“情報が往復する”仕組みが生まれた。

これはのちの「開国判断」を支える情報基盤となり、

日本の近代行政の萌芽といえる。

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