104I. 埋木の風
彦根城の梅が散り始めていた。
風はまだ冷たく、
琵琶湖から吹く水の匂いを運んでくる。
庭の石灯籠の影が長く伸びる頃、
直弼は書院の縁に膝をついて、
静かに庭を見ていた。
(春とは、こんなにも静かにやってくるものか……)
遠くから鶯の声が聞こえる。
その声の向こうで、
家臣たちの話し声がかすかに重なった。
「長崎に、また異国の船が来ておるそうにございます」
「江戸では、阿部伊勢守様が新たな役を設けられたとか」
声が風に乗って消えた。
直弼は眉を動かさずに、
茶の湯の炉に灰を寄せた。
⸻
「殿、江戸表より文が届いております」
老臣・長野主膳が膝をついて差し出す。
表書きには阿部正弘の名。
『国の外に風あり。
内に備えを欠くべからず。
御藩の政もまた、風を受ける構えを。』
筆跡は端正で、無駄がない。
直弼はその文を何度も読み返した。
(“風を受ける構え”か……
この彦根にできる“備え”とは、何だろう。)
⸻
夕刻、城下を見下ろす。
湖面が光り、波の筋が西へ流れている。
漁舟がいくつも並び、
その帆が夕日に染まっていた。
主膳がそっと言う。
「江戸は騒がしゅうございますが、
ここは、静かにございますな。」
直弼は微かに笑った。
「静けさもまた、備えのひとつだ。
騒がぬ場所でこそ、心を立て直せる。」
彼は庭の片隅を見つめた。
まだ芽吹かぬ梅の枝が一本。
冬の名残のように固い蕾を抱えている。
「春を焦らず、時を待て。
木も人も、同じだ。」
主膳は静かに頭を下げた。
⸻
夜。
書院の灯の下で、直弼は日記に筆を入れた。
『外の風、内に届く。
然れど、我が務めは内を整うること。
騒がず、慌てず、ただ心を備う。』
筆を止める。
硯の水に、灯の光がゆれていた。
その揺らぎが、まるで遠くの海の波のように見えた。
海を見たこともない自分が、
海のことを考えている。
それだけで、
時代が確かに動いていることを感じた。
⸻
翌朝。
風が少し暖かかった。
梅の枝の先に、
ようやくひとつ、白い花が咲いていた。
直弼はその花を見上げながら、
小さく呟いた。
「備えとは、静かに時を待つことでもあるのだな。」
湖の面を渡る風が、
一瞬だけ庭を通り抜けた。
その風は、遠い江戸へ向かって流れていった。
⸻
⸻
[ちょこっと歴史解説]
彦根藩主・井伊直弼の「静なる備え」
嘉永期の井伊直弼は、兄・直亮の死を経て藩主に就任したばかりで、
政務よりも藩の基礎を整える時期にあった。
江戸や長崎の動きは徐々に耳に入るが、
彼自身は「内を治めることこそ外を守る道」と考えていた。
この「静中の覚悟」が、のちに老中就任後、
開国派の阿部とは対照的な“内の覚悟”として花開く。
備えの章での直弼は、まだ動かぬ者の象徴である。
予約投稿ができてませんでした。。。。m(_ _)m




