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103KR. 開かぬ海図

春先の陽が、神田川の水面を淡く照らしていた。

蘭学塾の裏庭では、まだ梅が散り残っている。

勝麟太郎は、擦り切れたオランダ語の航海書を開き、

読み取りにくい小さな文字を指で追っていた。


“Compass deviation… Latitude…”

意味を拾いながら、彼はふと顔を上げた。

天井の梁に吊られた古びた地図が、

微かに風を受けて揺れている。


(この国の地図は閉じている。

 外の世界は、まだ描かれていない。)


扉の外から、聞き慣れた声がした。

「おい、麟太郎。阿部様がまた新しい座を設けられたそうだ。」

塾の仲間が駆け込む。

「応接の座ってやつだ。

 長崎も浦賀も、報を一所に集めるらしい。」


麟太郎は本を閉じた。

「……つまり、風が江戸まで届いたってことだな。」



その日の講義。

塾主の佐久間象山が、

黒板代わりの板に線を引いていた。


「地図というものは、描くたびに世界を広げる。

 日本の地図はまだ陸の形ばかりだ。

 海の地図を描ける者は、ほとんどおらぬ。」


生徒たちは息をのんで見つめる。

象山は続けた。


「海を測るには、風を読まねばならぬ。

 風を読めぬ者に、未来はない。」


麟太郎の胸の奥で、

何かが静かに灯った。



講義のあと、塾の裏に出る。

空には淡い雲、

そして川の上を渡る春の風。


ポケットから一枚の紙を取り出す。

それは、阿部正弘の名前が記された報。

“外国応接の座、設ける”――その一文を、

友人が手に入れて持ってきたものだ。


(幕府の中に、風を受ける場所ができた。

 ならば、俺たちはその風を測る者にならなきゃならねえ。)


小さく笑い、

舟板に腰をかけた。

水面を見つめながら、

彼は指先で地図を描くように空をなぞった。


「海図ってのは、

 誰かが最初に“開けねえ”と思った海を、

 描こうとしたときに生まれるんだ。」



夜、部屋に戻る。

油の匂いが満ちる。

机の上に広げた古地図を見つめ、

鉛筆を握りしめた。


外では、風が強くなっている。

障子が鳴る。

その音を、海のうねりのように感じた。


(阿部様も、川路様も、風の中にいる。

 俺も、風の中に立たなきゃならねえ。)


地図の片隅に、小さく書きつける。


“未開の海図、此より描く”


風がふっと灯を揺らした。

影が地図の上を走り、

まるで波が国の輪郭をなぞるようだった。



[ちょこっと歴史解説]

勝麟太郎と航海学の夜明け

嘉永期、勝麟太郎(海舟)は江戸の蘭学塾で航海術や天文学を学び、

その知識を日本式に応用する研究を始めた。

幕府の外国応接政策が始まり、

“海防と知識”の必要性が高まるなかで、

若き勝は“学ぶ者”から“使える知を持つ者”へと変化していく。

この時期の彼にとって、海図は単なる図ではなく、

**「まだ描かれていない未来」**そのものであった。

予約投稿できてませんでした。。。。。

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