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102KT. 往復する風

春を待つ長崎の空は、

まだ冬の気配を残していた。

風が海から吹き上げ、

町の瓦をひとつずつ撫でていく。


川路聖謨は、奉行所の廊下を歩きながら、

新しく届いた封書を手にしていた。

表書きには、「江戸・阿部伊勢守殿」。

朱の印がまだ鮮やかだ。


(江戸より、風が来たか……)


部屋に入ると、硯に水を足し、

封を解いた。

中には、整った筆致の指示が並んでいる。


『長崎の報、逐一、江戸へ。

 浦賀・蝦夷と綴り、ひと巻の帳と成す。

 国の耳目を此処に集める。』


短く、明晰だった。

それは命令というより、

方向を指す灯のような文だった。



彼は筆を取り、すぐに返書をしたためる。


『此度、長崎の報を日記に留めるに留まらず、

 写本を別立て、逐一、御用座へ送付致す。

 筆にて橋を架け、風を通す所存。』


書き終えたあと、

ふと外を見た。

港の向こうで、通詞たちが舟を漕いでいる。

新しい測量線を引くためだ。


「筆と舟。どちらも風を頼みに動く。」

独り言のように呟き、

笑みがこぼれた。



午後、奉行所の一角で通詞頭を呼び寄せた。

「浦賀よりも早く報を届ける道を開けぬか」

「船足では到底……陸路で人をつなぐほかは」

「ならば、その道を作れ。」


通詞は驚いて顔を上げた。

「奉行様が、道を?」

「報が遅れれば、国が遅れる。」

それは、阿部の言葉そのままだった。


その日のうちに、

長崎奉行所と唐通事屋敷のあいだに、

新しい伝令路の草稿が引かれた。

風が往き、また返る道だ。



夜。

川路は灯の下に座り、

阿部への次の書状を整えていた。


『恐れず、知れ。

 知りて、備えよ。』


阿部の筆跡が脳裏に浮かぶ。

それを自らの筆で、長崎日記の端に小さく写した。


「筆を持てばよい」

 あの言葉を、

 今度は“筆で橋を架けよ”と受け取る。


波の音が、紙の端を震わせる。

その震えが、まるで遠く江戸から届いた風のように感じられた。



翌朝、伝令が江戸へ向けて出立した。

海霧の中、船が音もなく港を離れる。

川路は浜辺に立ち、

風に背を押されるように一歩踏み出した。


「往く風は、いずれ戻る。

 その時、国はひとつの呼吸を持つだろう。」


海の向こうで陽が昇る。

光が波にきらめき、

風が紙をめくるように町を撫でていった。



[ちょこっと歴史解説]

「往復する風」──通信と制度の始まり

嘉永期、阿部正弘の指示により、

長崎・浦賀・蝦夷など各地の海防・外交情報が江戸に集約され始めた。

この往復通信は、従来の「奉行所ごとの報告」から脱し、

中央と地方を結ぶ新しい情報制度の原型となる。

長崎奉行・川路聖謨はこの改革を支える実務官僚として、

記録と通信を“制度”へと昇華させた。

風を通すように情報が往復し始めたことで、

幕府は初めて“知で備える”という時代の姿勢を持ったのである。

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