101A. 集う灯
夜の名残りがまだ障子の端にかかっている。
江戸城の一室に、静かな灯がひとつともっていた。
机の上には、長崎からの報、浦賀からの見分、蝦夷地の沿岸に関する古い帳面――
散らばる紙片を、阿部正弘はひとつずつ重ね直す。
(風は確かに吹いた。
ならば、まず灯を集めることだ。)
呼鈴に応じ、小姓が走る。
「殿、仰せの通り、目付と書役、数名を」
「入れよ。」
すぐに、几帳面な顔つきの若者たちが現れた。
彼らの衣の袖には、墨の匂いがかすかに染みている。
阿部は紙束を二つに分け、それぞれの前に置いた。
「ここより“外国応接”の座を設ける。名は後でよい。
するべきは、まず知ることだ。
長崎・浦賀・蝦夷、三方の報を一所に集め、日々つないで記せ。」
若者たちは息を呑む。
「長崎は川路聖謨。記す者だ。
浦賀は台場の見分を急がせよ。
蝦夷は古記だけでは足りぬ。新たに船を出し、海岸線を写図せよ。」
一人の書役が恐る恐る問う。
「殿、鎖国の掟は――」
阿部は首を横に振った。
「掟は国を守るために在る。
国を守るには、まず世界を知れ。」
短い言葉が、灯に照らされて部屋にしみる。
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昼刻、阿部は老中詰所を離れ、小広間に机を移した。
人の行き来の真ん中で、命が動く気配をつくるためだ。
出入りする足音が、紙の上の墨と混じって日々の律動になる。
川路からの新報が届く。
“筆は風を記す器なり”――あの一文が、やけに胸に響いた。
浦賀からの回状には、砲台の配置図と粗い測量。
蝦夷の古図に指を当てると、海岸線は砂のように崩れそうだ。
阿部は筆を取り、紙片に走り書きする。
「恐れず、知れ。
知りて、備えよ。」
その二行を、若者に手渡した。
「これを座右に貼れ。
ここは武の場ではない。
だが、国を守る戦はここで始まる。」
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夕刻、顔ぶれが少しずつ増えた。
通詞上がりの者、海図を扱える者、異国文字に食らいつく者。
誰もがまだ頼りない。
しかし、灯は数で明るくなる。
阿部は席の端に立ち、静かに言う。
「名や格式は後だ。
ただ、正しく記し、早く渡せ。
報が遅れれば、国が遅れる。」
遠くで鐘が鳴り、冬の空気が廊下を抜けた。
障子がわずかに鳴って、灯の影が揺れる。
(いずれ黒き船が来る。
その時、我らの灯が、
国の眼となり、手となるように――。)
阿部は机に戻り、川路への直書きをしたためた。
『長崎の報、逐一、江戸へ。
浦賀・蝦夷と綴り、ひと巻の帳と成す。
国の耳目を此処に集める。』
封をして蝋を押す。
火を吹き消せば、部屋はいっとき暗くなる。
だが廊下の向こう、幾つもの灯がもうともっていた。
集まった灯は、ひとつの夜を押し返し始めている。
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[ちょこっと歴史解説]
「備える」ための体制──情報の統合と応接の座
嘉永期、幕府は異国船来航の頻発により、
長崎・浦賀・蝦夷といった離れた現場からの報を横断的に集約する必要に迫られた。
阿部正弘のもとで整えられた「応接の座」は、
従来の縦割り(奉行所ごとの閉じた管掌)を越えて、
海防・外交・通詞・測量・地図といった知を束ねる試みだった。
武力整備に先立ち、正確な情報の迅速な統合を“備え”の要とした点に、
彼の現実主義と若さがよく表れている。




