012A.父のまなざし
その日の夕刻。書院での稽古を終えて屋敷に戻った私は、着物を着替えると、湯漬けの香りに誘われて奥の間へ向かった。
夕餉は、白米に塩鯛のほぐし身、菜っ葉の煮物、そして薄い出汁の味噌汁。慎ましいながらも、丁寧な献立だった。
向かいの座に、父・阿部正寧が控えていた。
五十代に見えるその顔は、無口だが品格があり、隙のない着こなしから“重役”の風格が漂っている。
しばらく静かに食事を進めていると、ふと父が箸を止め、私に目を向けた。
「……今日の学びはいかがであったか」
その言葉に、一瞬箸を止める。
(えっ、話しかけてくれるの……?)
咄嗟に、どう答えるべきか迷った。
下手に「つまらなかった」なんて言えないし、かといって「面白かった」なんて嘘を言っても見抜かれそうだ。
「……書が、やや、思うように運ばず……」
すると父は、ほんの少し口元をゆるめた。
「よい。それでこそ学びというものだ。
若きうちは、手間取り、迷い、叱られてこそ実りがある」
その声は低く、静かだが、どこかあたたかみがあった。
思わず胸の奥がきゅっとなる。
まるで、“父親らしい父”というものに、初めて触れた気がした。
「……は、はい」
私は姿勢を正し、少しだけ深くお辞儀をした。
父はそれ以上何も言わなかったが、それだけで十分だった。
その夜、自室で筆を執りながら、私はこう書きつけた。
> 父上の言葉に、少し、心が落ち着いた。
> 私はまだ、ここで何もできていないけれど、
> 怒鳴られるよりも、ああして静かに期待される方が、ずっと怖い。
> ……でも、応えたい。少しでも、ちゃんと、応えたい。
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[ちょこっと歴史解説]
▪️阿部家の家族事情について
物語中でも少しずつ描かれているように、阿部正弘は江戸時代後期の名家「阿部家」の出身です。
この家は元は備後福山藩を治めた譜代大名の家柄で、幕政の中枢に多くの人材を輩出しました。
主人公・正弘の父である**阿部正寧**は史実上も実在した人物で、当時としては中堅〜上級の旗本格を持つ人物とされています。詳細な記録は多くないものの、教育熱心で礼節を重んじる人物だったと推察されており、物語内でもそのような性格で描かれています。
一方で、母(奥方)や祖母については、史料に明確な記述はありません。
そのため本作では、物語的な想像を含めて“阿部家の家族”を構成しています。
▪️本作における阿部家の家族構成(設定)
•阿部正寧
阿部家当主。50代後半。幕府の政務に通じ、口数は少ないが信念を持つ父。
•奥方(仮名:千鶴など)
物語中ではまだ名前は登場していないが、屋敷の“奥”を取り仕切る母。
品があり、時に厳しく、時に優しく。まだ主人公との関係性は発展途上。
•御隠居様(正寧の母)
祖母にあたる存在。体調は万全ではないが、屋敷に静かに暮らしている。
将来的に主人公と深く関わる可能性を残す人物。
•阿部正弘(主人公)
一人息子で跡継ぎ。実際の阿部正弘も兄弟はおらず、若くして老中となりました。
本作では中身が現代の女子高生であるため、本人と家族との関係に葛藤と成長の余地があります。
なお、阿部正弘は史実では生涯独身を貫いた人物でもあります。
これが時代の要請なのか、彼自身の選択なのか――その点についても、物語の中で少しずつ触れていく予定です。
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