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100A. 声なき決断

夜が深い。

江戸城の回廊を渡る風が、

障子の隙間から灯を揺らした。


老中の部屋には、

誰の声もなかった。

机の上に置かれたのは、

長崎から届いた数通の報告書――

筆跡は、いずれも川路聖謨。


その一通を開く。

墨のにじみが新しい。

阿部は指でなぞりながら、目を閉じた。


『筆にて風を記す。

 この国の夜を、光に変えんがため。』


静かに笑みが浮かんだ。

「……まことに、よく記す男だ。」



ふと、遠くで鐘が鳴った。

寅の刻。

人の声の絶える江戸の夜は、

まるで深い海のようだった。


阿部は机に肘をつき、

小さな紙片を取り上げた。

それは、彼自身の覚え書き。


『恐れず、知れ。

 知りて、備えよ。

 備えて、開け。』


言葉を声にせず、唇の裏で繰り返す。

「恐れず、知れ……」


それは、若き老中が

初めて自らの意志で書いた方針であった。



やがて、廊下の向こうで小姓の足音がした。

「殿、明朝の会議、如何なさいますか」


阿部は筆を取った。

さらりと紙に書きつける。

――「外国応接掛を設け、

  長崎・浦賀・蝦夷の報を集めること。」


言い終えたあと、

彼はその文を封じ、蝋を押した。


誰にも告げず、誰にも誇らず。

ただ静かに、

時代の舵をひとつ切った。



障子を開けると、

東の空が、うっすらと白み始めていた。

江戸の冬の夜明けは遅い。

だが、その白さには、

確かな新しさの匂いがあった。


(風は届いた。

 今度は、我らが応える番だ。)


阿部はそのまま立ち尽くした。

遠く、鴎の声が聞こえる。

その音が、

まだ誰も知らぬ新しい時代の足音のように思えた。



[ちょこっと歴史解説]

阿部正弘の「外国応接掛」創設

嘉永三年(1850)頃から、幕府は諸外国船の来航報を受け、

阿部正弘の提案により「外国応接掛がいこくおうせつがかり」を設置した。

これが後の開国政策の前段階であり、

幕府が初めて「情報をもとに判断する外交体制」を築いた試みといえる。

阿部は慎重でありながら、

恐怖ではなく“知ること”を第一とする姿勢を貫いた。

その静かな決断こそが、幕末の大転換を導く第一歩であった。

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