098A. 揺れる評定
白い雪が、江戸城西の丸の庭を覆っていた。
その静けさとは裏腹に、評定の間は熱を帯びていた。
「長崎奉行からの再報、異国船はなお停泊を続けております」
小姓の声に、ざわめきが走る。
一座には老中・若年寄・目付らがずらりと並び、
それぞれの眉間に深い影が落ちている。
阿部正弘は、その中央に座していた。
まだ若い。
だが、すでに誰もが彼の沈黙を意識していた。
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「鎖国を乱す動き、断固許すべきではない!」
老中のひとりが扇を叩き、声を張る。
「ロシアもアメリカも、所詮は野蛮の国。
彼らの言葉など聞く必要はない!」
「しかし、異国の砲艦は実際に我が海岸に姿を見せております」
別の者が慎重に言う。
「武力を以て拒めば、戦となりましょう。」
空気が一瞬にして冷えた。
「戦、だと?」
「いかにして勝つ? 軍備は旧のままではないか。」
「ならば、門を開けと申すのか!」
議論が、怒号のように交錯する。
阿部は黙して聞いていた。
筆を握り、膝の上で軽く回す。
(皆、風の音を聞いている。
だが、その意味をまだ誰も知らぬ。)
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ふと、川路聖謨の報告の一節が脳裏を過った。
“国の外に風あり。内に、未だ耳なし。”
その「耳」を、この評定の場にどう開かせるか。
阿部はゆっくりと顔を上げた。
「諸卿。
我らが守るべきは鎖国の名にあらず。
国を保つことそのものにございます。」
室内が静まる。
「異国の来航は、避けがたい潮のごとし。
拒むのみでは、岸が削られる。
ならば、まずは知るべきです。
相手の意図を、海の風を、世界の形を。」
沈黙。
老臣のひとりが、やや苛立ちを含んだ声で言った。
「若き老中は理屈で国が守れるとお思いか」
阿部は微笑した。
「理を知らずに戦をすれば、国は滅びましょう。
筆をもって、まず国を守る。
それが、我らの務めと心得ます。」
その瞬間、部屋の外で風が鳴った。
障子の隙間から白い光が差し込み、
畳の上で、雪の粒がひとつ、音もなく溶けた。
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評定が散じたあと、
廊下を歩きながら阿部は思う。
「老中とは、波を鎮める者にあらず。
波の向こうを見る者であれ。」
冬の空気は冷たい。
だが、その冷たさの中に、
確かな春の匂いが混じっていた。
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[ちょこっと歴史解説]
評定と幕府の分裂
嘉永期の幕府は、異国船来航をめぐり意見が割れた。
老中の多くは依然として「鎖国維持」を主張したが、
阿部正弘は現実的な対応――外国事情の調査と人材登用――を重視した。
この評定での冷静な姿勢が、のちの開国方針の土台となる。
若くして老中に就いた彼の判断は、幕政の転換点といえる。




