095A. 報告を待つ部屋
江戸城の一角、御用部屋の障子が閉ざされていた。
朝の光が淡く障子を透かし、畳の上に白く滲む。
筆を握ったまま、阿部正弘は動かなかった。
机の脇には、昨夜届いた封印付きの報告書。
差出人は、長崎奉行・川路聖謨。
封蝋の朱が、薄くひびを入れている。
「嘉永二年十二月、ロシア船、長崎沖に来る。」
それだけで、部屋の空気が変わった。
老中首座・戸田氏正の顔がちらりと脳裏をよぎる。
いま彼にこの文を渡せば、
「異国の使節なぞ、ただの風聞よ」と笑われるだろう。
だが――笑って済むほど、風は軽くない。
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阿部はゆっくりと立ち上がり、
机上に広げた地図を見下ろした。
南西へと延びる細い線。
薩摩の先、対馬の先、
その向こうの、見たことのない海。
「国の形とは、陸にあらず。
海に境があると知る時代が、来たのだな……」
呟きは誰にも聞こえなかった。
しかしその声は、
部屋の静けさをわずかに震わせた。
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小姓が控えの間から顔をのぞかせる。
「殿、評定の刻が近うございます」
阿部は手を上げ、
「今しばらく、報告を読ませよ」とだけ言った。
評定よりも、この一通の報の方が重い。
封書を開き、
川路の筆跡を追う。
『彼ら、沈黙すれど、風は語る。
国の外に風あり。内に、未だ耳なし。』
――内に耳なし。
阿部は目を閉じた。
誰も悪いわけではない。
この国は、まだ聞くということを知らぬだけだ。
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正午、部屋の外に人の気配が増えた。
老中たちが集まり始めたらしい。
戸田、堀田、松平、そして若き阿部。
声が近づく。
「川路からの報告とやらは、いかほどのものか」
阿部は書状をそっと閉じ、懐に収めた。
「報はまだ途上。
だが、風は確かに吹いております」
そう言って立ち上がる。
襖を開ける直前、
彼は一瞬だけ空を仰いだ。
雲は薄く、
江戸の空にも、微かに海の匂いがあった。
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[ちょこっと歴史解説]
阿部正弘と「老中会議」
嘉永期、阿部正弘は25歳の若さで老中に抜擢され、
海防・外交・人材登用など、幕政改革の中枢を担った。
長崎奉行・川路聖謨から届いた異国船来航の報は、
彼の決断を促す重要な契機となる。
阿部は「開国か鎖国か」の二択に急がず、
まず「正確に知ること」を重視し、情報・意見の網を広げた。
この冷静な姿勢が、後の黒船来航時の対応基盤となった。




