094I.埋もれ木の芽吹き
冬の終わりの風が、庭の竹垣を鳴らしていた。
朝の光はまだ弱く、霜が残る石畳の上に薄く煙が流れている。
井伊直弼は、静かにその光景を見つめていた。
使者の言葉は簡潔だった。
――兄君、隠居の意を固められ候。
言葉の意味は明白だ。
次に名を継ぐのは、自分。
埋木舎の軒下で、長く沈黙していた年月が思い起こされる。
世に知られず、ただ己を磨くだけの時代。
その静寂の中で、季節はいくつも過ぎていった。
雪が溶け、また降り、木々は芽を出しては散った。
自分だけが、そこに留まり続けていた。
「春か……」
小さく呟いた声が、風に溶けた。
その音を、誰が聞いたわけでもない。
ただ、庭の片隅の梅が、わずかに蕾をふくらませていた。
政の噂は、遠く彦根にも届いていた。
江戸では若い老中が現れ、人を選び、
新しい風を政に取り入れようとしているという。
名は知らずとも、その気配は届いてくる。
――時代が、静かに形を変え始めている。
その風を、彼は遠くから見ていた。
勢いのある流れ。
だが、流れとは常に、何かを押し流すものでもある。
自分が踏み出すその先に、どれだけのものが残るのか。
それでも、留まることはできなかった。
沈黙を選ぶのは容易い。
だが、沈黙を続けた果てに芽吹くものがあるなら――
それは、もはや沈黙ではない。
門の外で、雪解け水が流れる音がした。
井伊はその音を背に、庭の中央に立つ一本の梅を見上げた。
白い蕾の端が、ほのかに色を帯びている。
「世に知られずとも、己を磨く。
花の咲かぬ埋もれ木も、春を待つ心あり。」
十数年ぶりに口にしたその言葉は、
もう“隠遁のための慰め”ではなかった。
風が吹き、枝先の蕾がひとつ、音もなくほどけた。
井伊はそのまま、門の方へ歩き出した。
地を踏みしめるたびに、冷たい土が音を立てた。
埋もれ木は、もはや土の下にはいない。
春は、確かに近づいていた。
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[ちょこっと歴史解説]
嘉永三年(1850年)、井伊直弼は兄・直亮の隠居により第十五代彦根藩主に就任した。
長く“部屋住み”として政治から遠ざけられていた彼にとって、
この就任は沈黙から行動への転換点となる。
井伊が藩主就任後に記した『埋木舎の記』には、
「花の咲かぬ埋もれ木も、春を待つ心あり」という一節が見られる。
これは、彼の内面の忍耐と、
いつか時が巡れば動くという確かな信念を示す言葉である。
本作ではその瞬間を、
“埋もれ木がついに芽を出す”象徴として描いた。
この芽吹きこそ、のちの「幕末の井伊」へと繋がる第一歩である。




