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093KT. 遠くの風、近くの波

長崎の空は、江戸よりも深く、そして重かった。

南から吹く風が、海の塩と異国の香を運んでくる。

嘉永二年の末、奉行所の屋根瓦に潮が白くこびりついていた。


川路聖謨は、港の方角を見下ろしながら、

報告書の束を机に置いた。

“外海に異国船、二隻を見たり”――

その一文が、遠くの空のように重くのしかかる。


彼は静かに筆を取り、報告の下書きを整え始めた。

しかし、筆先が紙に触れた瞬間、

庭の方から潮騒とは違う音が響いた。

低く、長く、重い――それは、風のうなりか、

それとも鉄の塊が海を割る音か。



「奉行様!」

門番が駆け込む。

「沖合に、旗を掲げた異国船がございます!」


川路は立ち上がる。

廊下を渡り、庭を抜けると、

長崎の入り江の向こうに、

陽を弾く異様な影が浮かんでいた。


高くそびえるマスト、

海面に映る黒い船腹。

その上で翻る旗は、

この国では見たことのない模様だった。


風が頬を打つ。

冷たくも熱を帯びた風だった。



港に出ると、

オランダ通詞の一人が息を切らせて近づく。


「ロシアの船と思われます。

 プチャーチンと名乗っております。」


川路は短くうなずいた。

足もとに打ち寄せる波が、

不思議なほど静かに感じられた。


「遠くの風が、ここまで届いたか……」


彼は呟き、視線を船に向ける。


船はまるで意思を持つかのように、

港の入り口に静止していた。

その沈黙が、すべての言葉より雄弁だった。



夜、奉行所に戻る。

灯の下、川路は筆を取る。

書付の冒頭に、一行を添える。


『嘉永二年十二月、ロシア船、長崎沖に来る。

 彼ら、沈黙すれど、風は語る。

 国の外に風あり。内に、未だ耳なし。』


墨がにじむ。

彼は筆を置き、外の波音に耳を澄ました。

遠くの風は、もう静かではなかった。

波は確かに、日本の岸を叩き始めていた。


[ちょこっと歴史解説]

ロシア使節プチャーチンの来航(嘉永二年・1849年)

嘉永二年、ロシア帝国の使節プチャーチンは艦隊を率い、

日本との通商を求めて長崎に来航した。

幕府は当初、厳重にこれを拒み、交渉を保留したが、

この事件がのちの黒船来航(嘉永六年)への布石となる。

長崎奉行・川路聖謨はこのとき現地の実務を担い、

彼の残した記録が後に外交史の礎となる。

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