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091KR 風を渡す者

冬の空は、高かった。

空気が澄むほどに、胸の奥まで冷たく染みる。

勝麟太郎は、両手を袖に押し込みながら、坂の上に立っていた。

江戸の町が一望できるその場所からは、

霞の向こうに海の匂いが届いてくる。


数日前、川路聖謨からの使いが訪れた。

「上から、話を聞きたいとのこと。」

それだけ告げて、男は深く頭を下げた。

“上”とは誰のことか、言うまでもない。


――阿部正弘。


勝は、笑うように息を吐いた。

まさか、自分の名がその口に上る日が来るとは。

学も家柄も、取るに足らない。

ただ、海を見てきただけの若造だ。

けれど、その海で感じたものが、

ようやく誰かに届いたのかもしれない。


「風を読めるやつだとさ。」

川路の言葉が耳に残っていた。

それは褒め言葉だろうか、あるいは試されているのか。


勝は、坂を下りながらつぶやいた。

「風は読むもんじゃねえ、乗るもんだ。」


政の風向きが変わりつつあることは、

町のざわめきの中にも感じ取れた。

倹約でも、弾圧でもない。

“備える”という考え方が、少しずつ人の口に上る。

それが誰の言葉かは知らずとも、

風は確かに、あの人の方向から吹いてきている。


老中――阿部正弘。

まだ会ったことのないその人物を思い浮かべるたび、

勝の胸の奥で何かがざわめいた。

同じ風を見ているのかもしれない。

けれど、自分はその風をただ“感じる”しかできない。

理や筆ではなく、体で覚えるほかない。


道の端を、紙屑が転がっていく。

風がそれを拾い、空へ放る。

勝はその動きを目で追った。

紙は落ちず、くるりと舞って陽に透けた。


「――乗ってみるか。」


彼は歩みを速めた。

風は、いつも先へ吹く。

だから、追う者は走るしかない。


[ちょこっと歴史解説]


勝麟太郎(のちの勝海舟)は、阿部正弘によって幕政に登用された若手の一人である。

登用当時はまだ三十歳に満たず、下級旗本の出身。

蘭学・航海術に通じ、長崎伝来の西洋技術を理解していた数少ない人材だった。


阿部は、実務官僚の川路聖謨の推薦を受け、

勝を海防・洋学関連の役職に抜擢する。

これは、それまでの身分制度を超えた人事として注目された。


「風を渡す者」は、

勝が“学ぶ側”から“動かす側”へ変わる契機であり、

同時に、阿部政権の革新性を象徴する場面である。

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