011A.昌平坂学問所
午の刻少し前。
馬に揺られてやってきたのは、江戸城近くにある「昌平坂学問所」――聞き覚えがあるような名前。社会科の資料集載っていた?でも、自分がそこに生徒として通うことになるなんて、夢にも思わなかった。
案内役の中間が頭を下げて引き返すと、私は門前で足を止めた。
(やば……全員、武士……全員、髷……)
畳のように整列した白い袴と、静まりかえる門前。視線が、じわじわと私に集まる。なにかが違うと、たぶん思われている。
(とりあえず、黙って座っておこう)
案内されるまま中へ。大きな板間の書院では、すでに数人の若侍たちが着席していた。墨の香りと、紙をすべる筆音。
年若い者もいれば、少し年上に見える者もいる。みんな黙々と、論語の一節を書き写していた。
私の前にも、筆と硯と巻物が置かれる。
(筆、持てるかな……うわ、なんか震える)
なんとかそれっぽく筆を構え、巻物をなぞる。
「學而時習之、不亦說乎」――学んで時にこれを習う、またよろこばしからずや。
聞いたことはある。でも、意味は……ぼんやり。
しかも漢文なんて、古典の授業以来だ。助詞も読み下し方も忘れてる。
(これ……マジで無理ゲーじゃん……)
筆を持つ手にじわりと汗がにじむ。筆圧が弱くて、かすれた字しか書けない。隣の男の子の筆跡は見事に整っていた。
視線を上げると、講義台の上でひとりの老人が咳払いした。
「阿部殿、そちは書に親しんでおられると聞いたが」
(あ、これ私に話しかけてる!?)
「はっ、はい」
思わず現代の返事が出かけて、慌てて言い直す。
「その……いささか、筆が鈍っておりまして」
教師役の男は一拍置いてから、ふむと頷いた。周囲の生徒たちがくすくすと笑った。完全に“できないお坊ちゃん”と思われたようだ。
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昼休みのような時間になると、外の庭に出され、麦飯と漬物、それにぬるい味噌汁が渡された。
少し遠くで、生徒たちがひそひそと話している。
「阿部家の若が来るって聞いたが……あれか?」
「ふだん口数が少ないそうだぞ。ちと妙なところもあると」
(あーあ、完全に“変な奴”扱い……)
口にした麦飯は、思ったより美味しかった。けれど、気分はどんより。
頭の中では「今、この時代で、自分に何ができるのか」がぐるぐると渦巻いていた。
(たとえば、理科とか歴史とか……現代の知識でなんとかできるかもって思ったけど)
(私、そんなに頭良くなかったし。得意教科もないし。まさか本当に何もできない!?)
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帰り支度のとき、書院の廊下ですれ違った男がいた。30代くらい、周囲とは少し違う雰囲気。穏やかそうで、でも目の奥が鋭い。
彼は一瞬、私を見て――目を細め、まるで何かを探るように視線を重ねた。
(……この人、どこかで……)
私の方からは声をかけられなかった。けれど、たぶん、彼も気付いていた。
自分と同じ“匂い”を持っていることに。
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[ちょこっと歴史解説]
▪️昌平坂学問所
昌平坂学問所は、江戸時代後期に幕府が設立した最高学府であり、幕府直轄の教育機関として、朱子学を正統とする儒学教育を行いました。場所は江戸・湯島(現在の東京都文京区湯島)にあり、坂の名前から「昌平坂学問所」と呼ばれました。
もともとは林羅山の子孫が開いた私塾「聖堂(湯島聖堂)」がその前身で、寛政9年(1797年)、幕府の手によって公的な学問所へと改組されました。以後、林家が代々「大学頭」として学問所を主導します。
学問所では、旗本や御家人の子弟が学び、登用試験(学問吟味)を経て幕府の官僚に取り立てられることもありました。ここで学ぶことはすなわち、知的エリート層としての道を意味していたのです。
この学問所で学んだ人物には、佐久間象山、吉田松陰、安積艮斎らがいます。彼らの多くは幕末という動乱の時代に思想的影響を及ぼし、開国論・攘夷論の双方に分かれて活躍しました。
昌平坂学問所は、幕末の思想的揺籃の地であり、同時に「江戸幕府の知」を体現する場でもあったのです。




