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089A 声を招く

冬の初めの風が、障子の紙をわずかに鳴らしていた。

静まり返った政の間で、阿部は一枚の紙を前にしていた。

「人を、選ぶ」――ただそれだけの言葉が、筆頭に記されている。


川路が用意した名簿には、まだ名も知らぬ者たちの履歴が並んでいた。

旗本の末子、下級の学者、地方の記録官……

いずれも、これまでの幕政では声の届かぬ位置にいる者たち。

だが、その名のひとつひとつに、かすかな熱を感じた。


政は、声で動く。

だが、いまの政は、声の出し方を忘れている。

静かな議場、沈む筆音、そして互いを疑う視線――

それがこの数年の空気だった。


「外の声を、内へ」

呟いた言葉は、誰にも聞かれなかった。

それでも、紙の上でなら伝えられる。

声が届かぬなら、行動で示すしかない。


筆を取り、名を選び始める。

永井尚志。川路聖謨。勝麟太郎。

すでに共に歩んだ者もいれば、まだ遠くにいる者もいる。

だが、誰もが“見ている”者たちだった。

時代の表ではなく、裏側の動きを見ている眼を持つ者たち。


「声を招く」とは、ただ人を呼ぶことではない。

“見る力”を持つ者を政に引き寄せること。

静けさの中に耳を澄ます者たちを、光の下に立たせること。


筆先が止まった。

最後の一名の欄に、まだ何も書けない。

心の中に、ひとりの影がよぎる。

――彦根。

まだ表舞台に現れぬ、あの沈黙の眼。


阿部は筆を置き、息を吐いた。

「声は、耳を求めるだけでは足りぬ。届く場を整えねばならぬ。」

その言葉を、誰にでもなく呟いた。


障子の外で、風がまた鳴った。

遠くで犬の声がした。

その響きに、ほんのわずかな未来の匂いが混じっていた。


[ちょこっと歴史解説]


阿部正弘が実際に登用した人材は、いずれも身分や年齢にこだわらない「異例の人選」だった。

川路聖謨、永井尚志、岩瀬忠震、井上清直、そして若き日の勝麟太郎。

彼らはいずれも、実務・観察・行動・知識のいずれかに秀でた者たちである。


阿部は、彼らを単なる家臣ではなく「共に政を考える仲間」として扱い、

幕政の中心に据えた。

その姿勢は、封建体制下では異端ともいえるが、

後の幕末政治における“近代的官僚制”の萌芽となった。


この回「声を招く」は、阿部が孤独な政治から、協働の政治へ踏み出した瞬間を象徴する一幕である。

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