087KR 風の行方
風が、江戸の町を渡っていた。
冬の手前の、まだ柔らかな風。
だがその奥に、何か新しい匂いが混じっていた。
紙と墨、それに、人の焦りのような匂い。
町では、評定所の話が囁かれていた。
「若ぇ老中が、また何か始めたらしい」
「倹約じゃねえ、備えだとよ」
酒場の隅でそんな声を聞くたび、勝は耳をそばだてた。
“備え”。
その言葉の響きに、何かを感じた。
目の前の今日ではなく、少し先の「明日」を考える政治。
そんなことを言う上役など、いままで一人もいなかった。
川路のもとで働く友が、ひそかに語った。
「阿部さまの書付は、声じゃねぇ。行動の形だ。」
その一言に、勝は笑った。
「行動の形、ね。なら、こっちはその“先”を見せてやらねぇとな。」
机の上には、使い古しの海図。
紙の端は、何度も折り目がついている。
波の線を指でなぞりながら、勝はぼんやりとつぶやいた。
「風は、止まらねぇもんな。」
政のことは分からない。
だが、変わる風の気配なら、肌で分かる。
動く者が出れば、必ず伝わる。
声の届かぬところにも、風は吹く。
障子の外で、風鈴が鳴った。
冬の入り口にしては、少し早い音。
それでも、心のどこかで嬉しかった。
何かが始まる音のように聞こえたからだ。
勝は立ち上がり、古びた羅針儀を手に取った。
風がどこへ向かうか、まだ分からない。
だが、それを“確かめに行く”ことなら、自分の役目だと思えた。
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[ちょこっと歴史解説]
勝麟太郎(のちの勝海舟)がこの頃に学んでいたのは、
単なる航海術ではなく、“風を読む力”でもあった。
江戸後期、長崎伝来の蘭学や海図が広まり、
若い幕臣たちは、海を「未知ではなく計算できる空間」として捉え始めていた。
この時期、勝はすでに川路聖謨や佐久間象山と交流を持ち、
彼らのもとで「理」と「行動」の両方を学んでいる。
政治の世界では阿部正弘が“静かな行動”を始めた頃であり、
勝はその動きを肌で感じ取りながら、
やがて自らも“風を起こす者”として歩み出すことになる。
風は、政の外から吹き、やがて時代そのものを動かしていった。
「風の行方」とは、まさにその胎動の始まりを描く一幕である。




