082A. 届かぬ声
昼の光が、評定所の障子に淡く透けていた。
その白さの向こうで、誰かが何かを話している。
だが、その言葉の先は、どこにも届いていない気がした。
「本町より再嘆願。前月の願書、未だ返答なしとのことにて」
書役が読み上げる声が続く。
嘆願、上申、訴願――。
どれも形は整っている。
だが、文の向こうにある“声”は、あまりに遠かった。
阿部は書面に目を落とした。
一通りの礼を尽くした筆跡。
だが、文の中にあるのは、
「待つ」「願う」「堪える」という言葉ばかりだ。
「……再嘆願に関しては?」
「勘定所にて、引き続き審議中との報告です」
「審議中、か」
返答になっていない。
それは、わかっている。
だが、その言葉で、全てが止まる。
政は動いている。
机の上では、確かに文が行き交い、
帳簿の数字も動く。
けれど、その流れの末端にいる人の顔までは、
誰も見ていない。
ふと、阿部は筆を取り、
手元の書状に一行、添え書きを入れた。
――速やかに返答を。期を遅らせるな。
墨が紙に滲む。
その一行が、果たしてどこまで届くのか。
誰の手に渡り、誰の机の上で止まるのか。
考え始めると、筆が止まった。
政は、人の手でしか動かない。
だが、人の手は、いつも迷う。
そして、迷う者が多いほど、声は届かなくなる。
障子の外で、鳥の声がした。
ひとつ、またひとつ。
短く、同じ調子で鳴く。
その素朴な音だけが、まっすぐに届いた。
阿部は目を閉じた。
政を始めたときに描いていた理想が、
少しずつ霞のように遠のいていく。
それでも、耳を塞ぐことはできない。
――届かぬ声を、聞こうとすること。
それが、政を担う者の最初の務めなのかもしれぬ。
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[ちょこっと歴史解説]
江戸幕府では、庶民や下級武士が訴えを上げる仕組みとして「嘆願」「訴願」「上書」などの制度が整えられていました。
しかし、書面による伝達が中心であったため、処理の遅延や途中での打ち切りも多く、
訴えの多くは上層まで届かないまま終わることも少なくありませんでした。
この「届かぬ声」をどう拾うか――それが幕末の改革派に課された、構造的な課題でもありました。




