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079KR. 声なき声

 昼下がりの神田川沿いを歩くと、

 水面に映る町の影が、風で揺らいでいた。

 上流で誰かが橋を渡るたび、波紋が伝わる。

 その揺れを見ていると、江戸というものがひとつの生き物のように思えた。


 「――聞いたかい。今度の触書だとよ」

 路地の向こうで、職人たちが声を落として話している。

 「新しい勘定の決まりだとか。こっちには関係ねえけどな」

 「関係ねえ、か。税の帳面はこっちの暮らしを映す鏡だぜ」

 笑い声に混じって、どこか乾いた音がした。


 勝は足を止めた。

 風が吹き抜け、紙屑が足元を転がる。

 誰が決めたのかもわからぬ新しい掟が、

 町の隅々までじわりと滲みている。


 「勝先生、こっちっす」

 小僧が駆け寄ってきた。

 塾の書生で、近くの長屋に住む少年だ。

 手には古い瓦版が握られている。

 「また物価が上がるって、母が……」

 声が途切れる。

 勝はその小さな手を見下ろし、言葉を探した。


 「……そうか。なら、どうすればいいと思う?」

 少年は首をかしげる。

 「えっと……偉い人が、考えてくれるんじゃ」

 「偉い人、か」

 思わず笑みが漏れた。

 その笑いの中に、痛みが少し混じる。


 政は、遠い。

 書院の中では声が重なり、

 ここでは声が届かない。

 その距離を埋める道具を、まだ誰も持っていない。


 勝は立ち止まり、

 川沿いの水面に目を落とした。

 空が映り、風がゆらぎ、

 そこに誰の顔もない。


 ――けれど、風がある。

 声のない声が、流れている。


 形も名もないそれを、どうにか掴みたいと思った。

 文字にすれば逃げ、

 言葉にすれば濁る。

 だが、確かにここにある。


 夕暮れの鐘が鳴る。

 少年の影が、長屋の壁に伸びた。

 勝はその影を見つめながら、

 まだ誰も知らぬ問いを胸に刻んだ。


 ――“声”とは、どこから始まり、どこで消えるのだろう。


[ちょこっと歴史解説]

勝麟太郎(のちの勝海舟)は、この時期まだ幕政から遠い位置にいながら、

庶民や職人の暮らしに強い関心を抱いていました。

天保の改革以後、江戸では制度や法令が相次いで出され、

町人たちは「上の決めたこと」に翻弄されながらも生きていました。

勝が後年、「声なき者に耳を傾ける政治」を志した背景には、

こうした日々の風景が確かに存在していたと考えられます。

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