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077A. 初動


 まだ陽の昇りきらぬとき、評定所の屋根が薄く白んでいた。

 夜の冷気を残したままの石畳を、足音が規則正しく渡る。

 その音を聞くたびに、阿部は胸の内で呼吸を整える。

 ――今日から、言葉が「命」となる。


 先の会議で定めた制度案が、今日、実施に移される。

 紙の上で描いた構えが、実際の人と町を動かす。

 ただの図であったものが、現実となる瞬間だった。


 「老中阿部、登庁」

 控えの間に響いた声に、空気がわずかに張る。

 川路の姿が見える。すでに筆と記録帳を用意していた。

 彼の動きに迷いはない。だがその筆先の先――書かれるべき“出来事”は、まだ白紙だ。


 「――始めよう」

 声に出してみると、わずかに自分の声が硬いのがわかった。

 だが、それを誰も気にする様子はない。

 諸奉行が頭を下げ、帳簿が開かれ、役人たちの筆音が次々と響きはじめる。


 政は音から始まる――。

 紙を裂く音、筆が走る音、算盤の玉が跳ねる音。

 そのどれもが、ひとつの町を、ひとつの家を動かしていく。


 老中として、その“音”を聴くのは初めてだった。

 言葉ではなく、数字でもない。

 政は、人が動く音でできている。


 机上の文書を一枚めくる。

 墨の濃淡が、まるで川の流れのように見えた。

 上流の決定が、下流の暮らしへと流れていく。

 その流れを濁らせず、淀ませずに導く――それが老中の務め。


 「……これでよい。次へ」

 声を落とし、書面に印を押す。

 朱が紙に滲み、淡い赤となる。

 小さな印のひとつひとつが、やがて江戸の町を照らす灯火になることを、

 阿部は知っていた。


 ふと、思いがよぎる。

 あの橋を渡った日の朝も、こんな風に冷えていた。

 風の匂いだけが、何かを始める前の匂いだった。


 ――政は、思いではなく、形で示すもの。


 そう呟き、朱印をもう一つ押す。

 評定所の外で、鐘の音が遠く響いた。

 それは、若き老中の名を脱したひとりのまつりごとの始まりを告げていた。


[ちょこっと歴史解説]

評定所ひょうじょうしょは、江戸幕府の政策決定を担う中枢機関でした。

老中が議題を主導し、町奉行・勘定奉行らが出席して合議する形式をとります。

阿部正弘が老中として政務を執り始めた時期、幕府内では制度の整備と運用が同時進行で進み、

「文書から現実へ」という行政の転換期に差しかかっていました。

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