076KT. 若き老中(構)ー記す手、残す意志ー
筆をとる指先に、かすかな疲労があった。
それでも、墨を含ませる手を止める気にはなれない。
いまこの一行を記すことが、明日の政を形にする。
そう信じられる日が、ようやく来たのだ。
「――老中の御決裁、確かに」
小姓が報告する声を背に、川路は紙面へと視線を戻す。
行間に走る墨の濃淡は、ひとつの時代の息づかいのようだった。
数年前、大塩の乱の報に接したとき、
人はここまで「記す」ことに無力だったのかと、打ちのめされた。
だが今は違う。
この文は、記すためではなく、残すためにある。
人の意志を、政の中に留めていくために。
机の向こうで、阿部が一枚の紙を掲げた。
「これで、皆の意見を繋げることができよう」
その声は、若いが芯があった。
老中としての威厳よりも、人を信じる響きがあった。
川路は頭を垂れ、筆を走らせる。
政は人に始まり、人で終わる。
だが、その間を支えるのは、記録である。
行の終わりに小さく印を押す。
墨の香りが部屋に満ち、障子の向こうで風が鳴る。
筆を置いたとき、川路はゆっくりと息を吐いた。
その息は、ひとつの章の終わりであり、
また次の構えへの始まりでもあった。
「――構、成れり」
静かに呟いた言葉は、墨よりも濃く、時よりも長く残るものだった。
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[ちょこっと歴史解説]
川路聖謨は、幕府の中で「記録官僚」としての役割を確立した人物です。
評定所・勘定所などの制度改革において、議事録や触書の整備を通じて、幕府の行政を近代的に再構築していきました。
彼の残した文書群は、後世の史料としても貴重であり、**「記すことが、未来をつくる」**という彼の思想は、この時期すでに形になりつつありました。




