涙と雨
「伽也子さんって、シスコン?」
瑠璃は伽也子の胸に顔を埋めたまま、小さな声で言った。
「……しすこん? 何ですかそれは」
顔を上げた瑠璃はその問いに答えず、手の中の朽ちた手首に目を落とす。体ががたがたと震え、吐き気を催した。
「これ、渡しといてくれって……」
砕いてしまいそうになるほど手首を持つ手に力が入る。伽也子の指が触れ、瑠璃の手からそれを引き剝がそうとする。
「……お姉様から受け取ったと仰るのですか。あの御方は今、地獄にいるはずです」
ようやく瑠璃の手から手首を離すと、伽也子はそれを袖の袂に入れた。瑠璃は憑き物が落ちたように体が楽になった。
「昨日も亡者が逃げてきたじゃない。神様だったら簡単でしょ」
元神の伽也子に一瞬で倒される程度の者が逃げ出せるなら、たやすいことのはずだ。
「地獄は何層もの階層によって成り立っています。魂はその罪の重さによって下へ下へと送られますが、元神であるお姉様は最も下の階層に送られました。神の力をもってしてもそこから抜け出すことなどできないはずです」
「でも、じゃあ、その手は」
「わたくしの左手だと思います。ですが、瑠璃さん、その者は本当にお姉様でしたか」
「さっきまで眠ってて、伽也子さんに似た声がして起きてみたら手にそれが……。声はそっくりだったよ。二人は双子なんでしょ」
瑠璃の言葉に答えるようにリンの声がした。
「ああ、そいつは妃美子に違いないぜ。匂いがあいつのもんだ」
いつの間にかそばにいた。毛が細かく逆立っている。
「けど、もう庭先からかき消えちまった。後を追うことはできねぇ」
伽也子は一つ吐息をつき、庭に視線を向けた。
「本当にお姉様なら、また戦わなければならないのでしょうか。意地悪な御方……」
空は曇っていた。鉛色の重い空からは今にも冷たい雨が降ってきそうだった。
「次に会ったときはかならず始末をつけてやれ。でも、あの野郎、どうやって地獄から這い出してきたんだ。出られるわけねぇんだが」
「意識」
瑠璃がぽつりとつぶやいた。
「私の意識が夢の中であの人につながったから、ここへ来られたんだ。私がこの世界に来たのはそのためなんだ。私は地獄と冥界をつなぐ鍵なんだ。あの人を地獄から引き離した、そのお返しに私の傷を治してくれたんだ」
感情のない声で一息に言ってしまってから、我に返った。伽也子が不思議そうな顔で自分を見つめる。またおかしくなってしまった。言い繕おうとすると、伽也子の右手が頬にそっと触れる。
「そのお話が本当でしたら、今すぐあなたを……」
冷たい瞳でまっすぐに見つめられ、瑠璃は本能的に殺されると思った。わずかな時間が永遠のように感じられた。伽也子は手を下し言った。
「それは瑠璃さんの思い違いではありませんか?」
瑠璃はほっと息をついた。目の前の人が妃美子に取って代わったように思われたからだ。
「夢の中で意識がつながったと仰られますが、それは何がきっかけになったのでしょう。その時、どんな夢をご覧になられていましたか」
伽也子の問いに瑠璃は何も答えられない。夢と言っても具体的な映像や物語は思い浮かばない。暗い世界に何かが落ちていく。それだけだったと思う。さっき見たばかりの夢なのに全ては漠然としている。
「夢の中でつながったって、そんなおとぎ話みたいなことがありえんのかねぇ。冥界に落ちてくるってことは普通とは違うんだろうが……。正直、そんなことがありえるとは思えねぇが、匂いは確かにあいつのだしな」
夢を通して誰かを連れ出すなど、確かにおとぎ話でしかない。しかし、人語を解する動物然り、神や異形の者然り、すでにこの世界からして現実離れしたおとぎ話の世界ではないか。瑠璃は自分の許容できる現実が何なのかわからなくなった。確かにわかっていることは自分が普通の存在ではないということだ。地獄へ行くほどの悪人ではないが、かと言ってまともでもない。
(あなたにわたくしを殺すことはできませんよ。リンのことは一つ貸しです。そうも言っていたよ……)
自分がなぜ妃美子を殺そうとするのだろうか。リンのこととは何だろうか。妃美子が治した手の甲の傷。今は塞がれたこの傷はいつつけられたものなのか。その傷跡を見ているうちに涙が一粒落ちた。
「私、もう帰りたい。ここに来てからおかしなことばっかだし、自分のことも全然わかんないし、誰のことも覚えてないし。大体、自分が本当に誰なのかなんて誰も証明してくんないし、名前だってほんとの名前かもわかんないし……。もう、わかんない」
涙がとめどなく溢れた。泣けばどうにかなるとは思わなかったが、泣かずにはいられなかった。袖で顔を覆い突っ伏した。肩に伽也子の手がそっと触れた。
「……そうですわね。目覚めたら全く知らない場所にいたのですもの、不安になられるのは当然ですわ。その上、このような目に遭わせられては何も考えられませんわね」
伽也子の手が優しく撫でる。瑠璃は幼子のように泣き続けた。
ざあっと音がして雨が降り出した。瑠璃は顔を上げ、裾で顔を拭くと、
「……ごめんなさい、でも、私これからどうすればいいの。戻れないんだったら、ここにいてもいいの?」
「ええ、もちろんです。わたくしがここへお連れしたのですから」
「ちゃんと守ってくれる? いつお姉さんが来るかわからないよ。次会ったら私、殺されちゃうかも」
瑠璃は震え出した体を抱きすくめた。伽也子の朽ちた左手の感触がよみがえる。
「安心しな、伽也がきっと守ってくれる。……多分な」
リンのおどけた言葉に伽也子が微笑んだ。目を瑠璃に戻すと凛とした表情で言った。
「瑠璃さんに手出しはさせませんわ。約束いたします」
「でも、そんなこと言ったって、いつまた来るかわかんないよ。どうすんの」
伽也子は唇に指先を当て、少し考えてから言った。
「お姉様は瑠璃さんに危害を加えるようなことはないと思います。おそらくですが」
その言葉に瑠璃は怪訝な顔になって、
「おそらくって、何でそんなことが言えるの? 無実の魂をたくさん殺したんでしょ」
「瑠璃さんのお話が本当でしたら、お姉様にとって、それだけ瑠璃さんを利用する価値があるということになります。ですから、みすみす手をかけるということはないと思います」
利用する価値がある。そんなこと言われたって、自分はそんな大それた人間じゃない。そう言おうとする前に伽也子が言葉を続けた。
「それに、何より双子の姉妹ですし、心が通じ合っております。お姉様の思考はわたくしの思考ですから、わたくしの考えが外れることはありえませんわ」
双子だから思考が似ているのだろうが、その程度のことで安心などできるはずがない。それにその双子の姉は自分を殺そうとしたのではないか。冥界へ降りてきた来た理由は単に姉への思慕なのか。この人、やっぱりシスコンなの?
「でも、やっぱり怖いよ。伽也子さん、ずっと一緒にいてよ。眠る時だけでもいいから」
「ええ、構いませんわ。ただお富さんがどう仰るか」
「お富のばあさんは妃美子のことを恐ろしがってるからな、あいつの名前を出しゃあ、すぐ許してくれるさ」
そう言って、リンは意地悪そうに笑った。確かに、そんなことを言っていた気がする。 中身がな、まるで正反対っちゅうくらい違うとる。ほんに天と地の違いよ。声を聴いただけだったが、確かにそうだった。
伽也子は縁に立ち、雨空を見上げた。
「神達の様子に変わったところは見られません。最下層のクナドの門が破れたなら地獄自体が崩壊しているでしょうから、そうなれば神達が総出で溢れた亡者達を滅ぼしにかかるはずです」
伽也子は部屋の中に戻り鏡台の前に座った。まるで鏡の中の自分に話しかけるように、
「瑠璃さんが冥界に来られた後に、お姉様が現れたことが単なる偶然とは思えません。やはり、瑠璃さんの存在がお姉様をこちらに呼び寄せたのかもしれません。確証はありませんが……」
と言って、また髪を結い始めた。
自分の夢を通して妃美子がこちらに来たのかはわからないが、朽ちた伽也子の左手がここにあることは確かだ。時が来ればまた私に会いにやってくる。そのことは疑いがないように瑠璃には思えた。雨が止み、雲間から薄い光が差した。通り雨だったらしい。髪を結い終えた伽也子と鏡の中で再び目が合った。
「瑠璃さん。残念ながら今はこのまま待つことしかできません。ですが、瑠璃さんに害をなさんとする者は、たとえお姉様であっても決して容赦はいたしません。ですから、そう不安がらなくとも大丈夫ですわ」
そう言って、伽也子は優しく笑んだ。