意識の底
ガタガタと大きな音がして世界が白くなった。朝か。ゆっくりと瞼を開く。障子の向こうに人影が見える。
「いつまで寝てるがや? もう、朝だぞい、起きれ、起きれ」
お富の声とともに部屋の主の断りもなく障子が開く。差し込む光に瑠璃は目を細めた。
「ええ夢は見れたかね?」
陽光の下の残雪は眩いばかりに白い。お富の姿が逆行で影絵のようだ。何となく不安で、これも夢ではないかと思い、頬をつねったら痛かった。どうやら本当に昨日の続きらしい。その様子を見て、お富が笑ったようだった。
「どうせ、すぐこの世界に慣れるけん、まあ、そんなに心配することもない。でも、おめぇさんはほんとに変わったお人のようじゃのう、まだ若いのに。いや、若いからこそ変わってるちゅうべきなのかの」
私は遠江瑠璃。チョコはもちろん、カステラ、ケーキ、おはぎにクッキー、甘納豆。甘い物好きのただの少女。
この屋敷の主人に借りた着物の袖はやはり長い。未だ現実と夢幻の狭間にいるよう。その見極めにはもう少し時間がかかるようだ。
「何か思い出したか? ま、ともかく雨戸開けるの手伝ってくれや。そん後、すぐ朝飯にすっから」
お富が伽也子の部屋まで膳を運んだ後、台所脇の小部屋で二人は朝食をとった。
「いいか、伽也子様のような高貴な御方とは別々に食事しなきゃなんねぇ。あとな朝にお膳を持ってくときゃあ、かならずお部屋の前で声掛けしてから置いてくんだぞ。起きられたばっかの時のお顔なんか拝見しちゃなんねぇ、失礼極まりないからな」
焼いためざしを囓りながら、瑠璃は昨日から気になっていたことを聞いた。
「伽也子さんは、お姉さんと戦ったの?」
「……それ、誰から聞いた?」
「リン」
お富は、ふう、と一つため息をつく。
「あの、バカ、話さなくてええことをべらべらと」
と、そこまで言って、何かに気がついたように辺りを見回す。
「そいや、あいつ見かけねえな。朝飯の時間なのに珍しかことあんなあ、体の具合でも悪いんかの」
瑠璃はお茶を一口啜った。その味をしみじみと味わってから、こほんと咳払いを一つ。
「伽也子さんは神様の立場を捨てて、この世界に降りてきたんでしょう? お姉さん思いなのね」
「そりゃ、伽也子様は大変慈悲深い御方じゃからなあ、姉君のことを今でも慕っておいでなんじゃ、て、何わしから話聞きだそうとしてるんじゃ。神様のことをこれ以上、詮索すんな」
「いいじゃない、少しくらい。双子らしいけど、やっぱり伽也子さんとは違うの? 地獄に落ちるくらいだから全然違うんだろうなぁ」
お富は当然だ、とでも言いたげな顔をして、
「そりゃ、おめぇ、伽也子様と姉君では全然違うわ。中身がな、まるで正反対っちゅうくらい違うとる。ほんに天と地の違いよ」
「お姉さんは怖い人なんだね」
「ああ、神様の考えなさることはわしらにはわからんこともあるが、妃美子様は特に恐ろしい御方じゃった」
そこまで聞いて、瑠璃はふと気が付いた。
「お富さんは神様のいた世界にいたことがあるの? もしかしてお富さんも神様だったとか?」
お富は瑠璃の言葉に頭を振る。
「わしゃあ、ただ伽也子様を使われてるに過ぎんよ。元はおめぇさんと一緒だあ。地獄に落ちるわけでもねぇ、生まれ変わるわけでもねぇ。伽也子様に拾われて、しばらく天上の世界にいたことがあるだけだ。伽也子様に救われたから、この冥界に戻ってきたんだ」
「でも、あの亡者とかいう地獄の化け物が怖くないの?」
その言葉にお富はまた頭を振った。
「何かあっても、伽也子様が助けてくださるからの、わしは全然怖くないんじゃ。あの御方のお世話をさせてもらえればそれで幸せなんじゃ」
そう言って、お茶を啜り黙り込んでしまった。瞑目しているようで、もう何も喋ってくれそうにない。瑠璃もお茶を啜り、ほう、と息を吐く。伽也子さんのお姉さんが現れたら、伽也子さんはどんな顔をするだろう。見てみたいような見たくないような。宙ぶらりんになった気分でそんなことを考える。
喜ぶのかな、怒るのかな、悲しむのかな。どんな表情を見せてくれるのだろう。
「きゃああああああああっ!」
耳をつんざくアニメ声。あれはキリ子さんの声だ、どうしたんだろう。お富もぎょっと目を見開いて瑠璃と顔を見合わせる。立ち上がった瑠璃を見て言う。
「待て、ひょっとしたら亡者の奴がまた来たのかもしんねぇ。おめぇはどっかに隠れてろ。わし、伽也子様を急いでお呼びして来っから」
お富はそう言って、早足で部屋を出て行った。隠れてろって、一体どこに。一緒にいたほうがいいんじゃないの? というか独りじゃ怖いんですけど。瑠璃は少し躊躇ってから、部屋を出た。自分も伽也子の部屋に向かう。と、廊下の奥の突き当りに伽也子達三人が立っているのが見えた。昨日見たような化け物はいないらしい。近付くとキリ子が振りかえる。その手には何かふさふさとしたものが抱えられていて――。
「リン?」
目をつむり、ぐったりとしている様子は眠っているようにも、死んでいるようにも見える。何かとてつもない不安に駆られ、瑠璃は聞いた。
「どうしたのこの子。具合でも悪いの?」
キリ子は頭を振り、
「裏庭で倒れているのを見つけたんですが、何度呼び掛けても全然答えてくれないのです。リンさんはいつもお元気ですから、こうしたことは初めてで、それで、それで、もしかしたらと思ったら怖くなって……」
伽也子は思いつめた表情でリンを見つめる。
「リン……」
長い黒髪に覆われた白い顔はやや青ざめて見えた。その一途に清い瞳からは今にも涙が出そうで――。もう泣き顔は見たくなかった。
瑠璃はリンの体にそっと触れる。自分に奇跡が起こせるわけでもないのに、そうせずにはいられなかった。
その生気のない感触にある懐かしさを、親しみを覚えた。何だろう、いつまでも触れていたい。離したくない。背や柔らかい腹を撫でさする手が止まらない。たまらなくなり頬を押し当てさえする。
「う、うん」
ぴくんとリンの体が動いた。瑠璃はリンの体から頬を離す。ゆっくりと目が開いた。
「ん、おめぇ、どうした? あれ、みんな揃って、どしたい」
四人の顔を不思議そうに見ながらリンが言う。
「よかった。リンさんご無事で。いつまでも起きないから、本当に死んでしまったと思いましたよ」
「は、なんで俺が死ななきゃなんねぇんだよ。わけわかんねぇよ」
「まったく、驚かせんじゃねぇ、このバカチンが。伽也子様に余計なご心配かけてんじゃねぇ。いつもは飯出来たらすぐ飛んでくるくせに」
「お富さん、あまり責めてあげないでください。わたくしの力のせいで風邪でも引いたのかもしれませんし……」
そう言う伽也子は、しかし、どこか安堵した表情をしている。慈しむようにリンの頭をなでる。
「おいら、風邪なんて引いたことないやい。こう見えても神に長年仕えてる神獣なんだからな」
リンは頭を振り伽也子の手を邪険に払いのける。伽也子は口に手をあて、ふふふ、と笑った。
「これだけ元気なら大丈夫でしょう」
リンはキリ子の手から下りると、台所の方へすたすたと歩き出す。瑠璃はすぐ横に並んで、
「あんなに心配されて、もてる男はつらいね」
「ああ、何だよ。うるさいな」
リンは少し怒ったように、前を向いたまま瑠璃を見ようとはしない。その様子に瑠璃も笑いながら、
「私のなでなで作戦が効いたみたいだね。感謝の印に、ご飯食べたら昨日の話の続きを聞かせて。伽也子さんのお姉さんって、どんな人? お富さんは教えてくれないし。気になっちゃって」
「なでなで作戦って何だよ、気持ち悪いな。……って何で知ってんだ?」
リンは足を止め、瑠璃を見上げる。
「妃美子……、伽也の姉のこと、お前さんに話したっけか?」
「晩御飯の後で話してくれたじゃない。お姉さんと戦って、そのせいで左手を失ったって」
リンは首を傾げ、「そうだっけ?」と考え込んでいたが、
「飯食ってから話してやるよ。今日は朝から調子が悪いな、寝違えたせいで首が痛えよ」
そう言って、リンはまたすたすたと歩き出す。ついて行こうとすると、右手の甲に痛みが走った。見ると、何かで引っ?いたような傷がいくつもついていて、左手も同様だった。何これ? いつの間についたんだろう。眠ってる間に自分で掻き毟ったんだろうか。顔や手を洗っているときは気が付かなかった。指先で触れると傷口が痛んで、薄い血が滲んでくる。
同時に頭がふらつくほどに重くなってくる。立っていられない。
「おい、ぼさっとして、何突っ立ってるだ」
お富の突然の声に瑠璃は我に返った。すぐに両手を後ろに回した。
「食器の後片付けしたら、次は掃除だ。働かざる者食うべからずだあ」
「え? あの、私、今日、ちょっと体調悪くて」
「な~に、すっとぼけたこと言ってるだ。さっきまで、あんな元気だったでねぇか。こんな老いぼれ一人に全部押し付けて、最近の若いもんは、ほんとに……」
お富はそう言いながら、小さく首を振る。
「あ、あの。さっきリンを回復させるために体力を使いすぎてしまったようで、だ、だから、少し休んだら、すぐ回復すると思うので、多分……」
「ほんとだな? 元気になったらすぐ来んだぞ。働かざる者食うべからずって言うからな」
お富は不満顔で言って、踵を返した。
瑠璃は自分の部屋に戻り横になった。なぜ、この傷を隠したいのだろう。わからない。自分への不審に呼応するように、傷がまたじくじくと痛み出す。血が滲む。
昨日、自分は何をやった? 私は本当に私がわからない。頭が重い。手が痛い。意識がぐるぐると回転しながら底の方へ沈んでいく。長い時間が経った気がした。
「まあ、ひどい怪我」
伽也子の声がして、自分の手が取られるのを感じた。ふっと息を吹きかけられたと思ったら、手の甲の痛みがぼんやりとした感覚に変わって、やがて何も感じなくなった。伽也子さんが助けてくれたと思ったら、自然に涙があふれた。いや、そう感じただけにすぎないけれど、自分の涙はやがて、伽也子が自分のために流してくれた涙に変わって、暗い意識の闇の底に落ちて消えた。私はリンを殺しました。私がリンを殺しました。私は地獄に落ちるべきです。落ちたいのです。そう叫んでみても、その尊い涙が戻ってくることはない。あの人を悲しませることはこんなにもつらいのか。これは私への天罰なのか。
「その通りですよ」
ふいに瑠璃の耳元で言葉が囁かれる。伽也子さんの声。いや、同じ声だが、違う。
「わたくし、伽也子の姉の妃美子と申します。あなたにわたくしを殺すことはできませんよ」
瑠璃の手を取って何かを握らせる。乾いて骨ばった感触。
「伽也子に渡しておいてください。それからリンのことは一つ貸しです。あまり、弱い者いじめをしてはいけませんよ」
気配が消えた。目を開き、起き上がる。誰もいない部屋。瑠璃は手に持ったものに目を落とした。ふらりと立ち上がり伽也子の部屋に向かった。
声をかけずに伽也子の部屋の障子を開ける。鏡台の前に座って髪を結っていた伽也子と鏡の中で目が合った。昨日と同じ薄紅梅の羽織を着ているが義手はつけていない。そのままへたりと座り込んだ。声を出そうとするが出せない。瑠璃は初めて自分が極度に怯えていることを知った。
「瑠璃さん?」
伽也子が瑠璃のもとに近付きその手をとった。
「お、お姉さんが……」
瑠璃はそれだけ言って、伽也子の体に崩れ落ちた。瑠璃の手には干からびた人の手が握られていた。