佳人と攫われた子
目覚めると少女は知らない部屋にいた。開け放たれた障子の向こうに夥しい草木の緑が見えた。
少女は布団から起き上がった。見たことのない襖に畳、天井。古い和室だった。長く眠っていたせいか頭が重い。風に当たろうとふらふらと縁側に立った。葉や梢を透かした陽光が芝をまだら模様に染めている。心持ちいい香りがした。そのとき自分が着物を着ていることに気が付いた。白い縞模様の着物。少女の身丈にあっておらず袖や裾が長い。
「おい」
突然の呼びかけに驚いて足元を見ると、青みがかった銀色の毛で覆われた、犬のような狐のような動物がいた。頭が大きく尻尾の形は筆の穂先のように太く短い。クリクリした目でじっと見上げている。
「もう、起きたか。ついてこい」
と少年のような声で言って、のそのそ歩き出した。少女はぼんやり立ちつくしていたので、「おい、早くしねぇか」と急かされた。ちょっとだけ、むかつく。
後ろを歩きながら、視線を外にやると、庭の木々の向こうの上空をきらびやかな翼を翻して大きな鳥が飛んでいくのが見えた。あれは孔雀? いや、あれは火の鳥、鳳凰だ。不死の象徴。昔、マンガで読んだことがある。長い尻尾の先が雲に隠れるまで眺めて、これは霊験あらたかだなあ、ありがたや、ありがたや、と少女は心の中でつぶやいた。
「ここの人に会わせてくれるの?」
再び歩き出し、少女は聞いた。犬のような狐のような動物は振り返り、
「おかしいと思わないか?」
と逆に問うてきた。
「何が?」
「何がって、おかしいと思わないのか」
少女は動物の横に並び、
「子供の声なのに、大人みたいな言い方で何か偉そうに聞こえる」
「偉そうって、こんな喋り方だから仕方ない」
犬か狐のような動物は、やはりクリクリした目で見上げた。うん、やっぱりおかしいよ。「もっと、見た目相応な感じで話した方がいいよ。そんなんじゃもてないよ」
少し行き、角を曲がったところで止まった。大きな池が臨まれ、陽光を受けた水面が金色にきらめいて眩しい。楡や楓の枝葉を揺らしながら涼やかな風が吹き渡った。
「ここ?」
動物は答える代わりに、障子の紙を猫のようにひっかきだした。
「おやめなさい」
中からの強い声に、動物は萎れるように項垂れた。少女も思わず畏まった。
「あの、すいません、私……」
「お目覚めになられましたか。どうぞお入り下さい」
穏やかな声で呼びかけた。少女はそっと障子を開いた。
一人の若い佳人が端座していた。
二重瞼の瞳は大きく、肌は雪のように白い。
紺色の小紋に薄紅梅の羽織を纏った姿は凛としていて、一幅の画を見るようだった。
「こんにちは」
その人は小さく頭を下げた。柔らかな微笑だった。右手で促され前に座った。聞かなければならないことがあるのに何を言えばいいかわからない。黙ったままでいると件の動物が傍まできて、
「伽也、この娘おかしいよ。さっきなんて言ったと思う? 話し方がおかしいだって。お前さんの方が」
前足で少女の膝をはたきながら、
「よっぽど、おかしいんだよ」
「おやめなさい」
再び強く言われ、犬か狐のような動物は縮みこんだ。その人は少女に目を戻し言った。
「わたくし、宮永伽也子と申します。もう少ししてから、部屋に参ろうとしたのですけれど、この子が勝手なことをいたしました。もうお加減は大丈夫ですか? 単刀直入に申し上げますが、お嬢さんはもう生きてはおられません」
その人の頬を涙が伝った。少女はきれいな雫だと思った。
「……どうして泣いているの?」
「年長のものから逝くのが道理ですのに、こんなにお若い方が亡くなられて……」
その言葉よりも目の前の人が自分のために泣いていることに驚いた。ぼんやりと、自分にもそのような人がいたのだろうか、と考えた。そういえば、ここへ来るまでの記憶がない。これまでのことが思い出せない。また頭が重くなってきた。少女は頭を抱えた。
誰かの声、動揺、反転、影。
少女は「あっ!」と叫んだ。動物が驚いて両耳をぴんと立てた。
「わ、わ、私の、な、名前は、と、と……」
少女は目をかっと見開き、ばさり、と鳥のように両腕を上下に動かしながら、
「と、と、豊臣の秀吉がいい国作った鎌倉に大福はまって、さあ大変、あんこが出てきてこんにちは、嬢ちゃん一緒に食べましょう。あちきは甘いの大好きで、チョコはもちろん、カステラ、ケーキ、おはぎにクッキー、甘納豆……、あっ!」
そこで少女は腕を振るのを突然止めた。目の前の人に焦点を合わせた。
「遠江、遠江瑠璃……。私の名前」
絞り出すように答えると、それきり沈黙した。
「……おい、ほんとに大丈夫か」
少女はそちらに目をやると、
「うわぁぁ! 何か喋ったぁぁ!」
絶叫して、卒倒した。
目覚めると伽也子の顔が近くにあった。その安堵する表情を見て、この人は信頼できる人だと少女は、瑠璃は思った。起き上がると、銀色の毛の動物が警戒するような顔色で、
「わ、わん」
と言った。声質は少年のそれでさっきの夢がまだ続いているのか、それとも自分の脳が妄想を見せているのかわからなくなってきた。伽也子が盆の茶碗に茶を注ぎ渡してくれた。熱いお茶だ。
「あの、ここはどちらなんでしょうか? あ、あの、お茶、いや、あの、助けてくれてありがとうございます。あ、あの……」
手の震えでこぼれそうになったので呷るようにして飲み込んだ。心地よい熱さが喉元をすぎる。「おいしいです」瑠璃は目を上げて言った。
「ありがとうございます。甘い菓子はありませんけれど」
伽也子は少し笑った。瑠璃も釣られて笑った。
「私、おかしくなっちゃたんでしょうか。動物が人の言葉話してるの聞こえたり、大きな鳥が飛んでるの見えたり、チョコがどうとか訳の分かんないこと叫んだり……」
そこまで言って、瑠璃は自分が見ているものはやはりすべて夢なのではと思い至った。人は毎日、夢を見ている。夢の世界なら何でもありだ。動物が話そうが、怪獣が見えようが、おいしいお茶を飲ませてもらおうが、それは全て脳による幻覚に過ぎない。おいしいお茶。うん、うまい。この感覚は果たして夢だろうか、本当においしいお茶……。まあ、しかし、それこそが夢なのであり、夢の中でこそ味わえる感覚というものがあるのだろう。夢だ夢、全部夢。それだけだ。
「御免あそばせ」
伽也子がふいに右手を伸ばしてきた。頬をつまみ、ひっぱり上げる。淑やかな外見に似合わずその力は強い。
「い、いだい、だい」
伽也子は手を離し、居住まいを正した。
「瑠璃さんは夢を見ているのではありません。また気が触れてしまわれたわけでもありません。現世で亡くなられた後、魂が、この世界……、冥界に囚われてしまったのです。さきほどの秀吉がどうこうというのも、脳が現実を受け入れることができず、一時的に混乱を来したため発せられたのでしょう」
そう言って、盆の上の自分の茶碗に茶を注いだ。
「でも、私、死んでないわよ。体だってちゃんとあるし、頬っぺたも痛いし、魂とかそんなぼんやりしたものじゃないわよ」
伽也子は表情を変えず、
「亡くなる、というのは現世における現象で、今、この冥界に瑠璃さんが存在することがその証左なのです」
存在することが死んだことの証左、と言われても、死ぬということは自分という存在がなくなる、少なくとも肉体的には消滅するということだと漠然と思っていたので、伽也子の説明を聞いてもいまいち、というかあまりというか、ほとんど納得できていない自分が確かにいるのだから自分が死んだという実感は湧いてこない。自分という意思はあるのだからやはり私は生きている。きっと、多分。
「要するに、お前さんはあっちの世界からこっちの世界に来ちまったってことだよ。それだけだ」
銀色の毛の動物が近付いてきて言った。さっきほど驚かなくなっている。要するに、私はあっちからこっちに移動して来ただけということらしい。じゃあ、そんな深刻なことじゃないよね。
「ちゃんとした体付きでも、死んでることに変わりないから、現世に戻ることはできない。悲しいけどこれが事実だ」
瑠璃はふと気づいた。伽也子の茶碗を持つ手。その左手だけ白い手袋をつけている。それに気を取られたので、犬だか狐だかのショッキングな託宣を右から左に聞き流してしまった。瑠璃の視線に、
「私には左手がありません。ですから、普段はこのように竹で編んだ手首を取り付けています」
そう言って伽也子は茶碗に口をつけた。瑠璃は不躾に見ていたことを謝ろうとしたが、銀色の毛の動物が口を挟んだ。
「まあ、そういうことで、これから長い付き合いになるから、よろしくたのむ。俺はリンっていうんだ」
そういうことって何? と聞こうとしたが、このリンと名乗る動物が何らかのトリックを用いて喋っているとしたら、という発想が俄かに浮かんだので、思わずリンをがばと抱き上げ、体中の毛を探ったり、口を開いて喉奥まで見通してみたりしたのだが、何ら不審な部位や機器などは発見できなかった。少年名探偵よろしく、後ろから誰かが声を出しているのかもしれないと思い、リンを抱えたまま襖や障子を開けてみたが、むなしいかなやはり誰もいなかった。
「お前、何してんだ」
瑠璃はリンの体を揺さぶりながら、
「……あなたの声出してる人どこなのよ。なんで動物が人の言葉理解できんのよ。あなたの体、どういう構造してんのよ」
伽也子は微笑しながら、
「現実が受け入れられないのも無理はありませんわ。ですが、おいおい瑠璃さんにもおわかりになると思います。ご自分が現世にはおられないということが」
あくまでここはあの世と言い張る気らしい。まあ、いいだろう。そういうことにしておいてあげる。夢であれ妄想であれ、いずれ時間がたてば元の状態に、本来の自分に戻ることができる。とりあえずここに留まっている理由はない。リンをおろし伽也子の前に座る。
「あ、あの、私を助けて下さってありがとうございます。体の方は大丈夫なのでそろそろお暇しようかと思います。おいしいお茶も頂いてありがとうございます。あの、スマホをお借りできないでしょうか」
伽也子は不思議そうな顔をして、
「すまほ、とは何ですか?」
瑠璃も不思議そうな顔をして、
「すまほ、とは何ですかって、何ですか」
言葉の最後に怒気がこもってしまった。瑠璃はすぐに言い改め、
「あ、すいません。携帯、お持ちでないんですね。あの、ここの電話をお借りできないでしょうか。自分でタクシー呼んで帰りますから」
「たくしい、とは何ですか? 先程リンが申したように、瑠璃さんは残念ながら元の世界に戻ることはできません」
相変わらず会話が噛み合わないなと思っていると、稲妻のようにある考えが閃いた。なぜこんなことに気が付かなかったのだろう。自分は誘拐されたのだ。記憶がおぼろげなのも、幻覚や幻聴も薬を飲まされためだ。意識を失わされ、ここまで連れてこられた。今は世話役としてこの人があてがわれているが、じきに共犯者、誘拐の実行役である屈強な男達が帰ってくるだろう。どうする? 相手は女性一人に小動物一匹。戦って勝てるか? 無理だろう。最前の一瞬で頬をつまんだあの動き、ねじり上げたあの腕力。素人じゃない。私にはわかる。この人に勝つことはできないだろう。どうする、どうすればいい。
取る手は一つしか思い浮かばない。逃げるのみだ。
「あの、すいませんがもう一杯、お茶をいただけますか?」
伽也子が急須を手に取ったその時、瑠璃はついと立ち上がり、
「ご、御免あそばせ」
と一足飛びに庭に駆け下りた。
一散に駆ける。足裏が小石を踏んで痛い。池の脇を突っ切り、木々が生い茂る中に入って、顔や手を枝にうたれながらもそれでも必死に走った。そこを抜け視界が広くなったと思ったら、今度は白い漆喰の塀だ。横に長く伸び行く手を塞いでいる。瑠璃の身長では越えられそうにない。梯子か踏み台になりそうなものがないか、と辺りを見回すが当然そんなものはない。ちっ、と思わず舌打ちした。とりあえず進路を左にとるか。遠雷が聞こえる。雨になったらいやだなあ、汗だくなうえに雨に濡れるなんて最悪だ。まるで自分が地べたを這いずり回るドブネズミのようじゃないか。早く家に帰ってシャワー浴びたい。でも、自分の家ってどこだっけ? 住所がわからない。タクシー捕まえても何て言えばいい? 早く出してください、追われてるんです。これでいいか。病院か警察に送ってもらえば後はなんとかしてくれるだろう。しかし、この塀、どこまでも続いているんだろう。いくら走っても終点が見えない。これも幻覚のなせる業? とうとう瑠璃は足を止めた。ちょっと、たんま。こんなの聞いてないよ。肩で息をしながら塀にもたれかかる。頭を上げ、空に目をやった瑠璃が見たものは果たして雷神であった。
「は?」
乳白色の肌の筋骨隆々とした雷神が渦巻く黒雲の中から瑠璃を見下ろしている。ストールのような長い布をなびかせ、背中に輪上に連なった太鼓を背負っている。その目は怒りで燃えるよう。視界が白くなった。次の瞬間、すさまじい衝撃と轟音が瑠璃を襲った。あ、飛ばされたな、と思ったら実際に自分の体が宙を飛んでいた。リンがスローモーションのようにゆっくりとこちらに駆けてくる。なんで、あなた、ここにいるの? どうでもいいけど、車にはねられたらこんな感覚何だろうな、きっと。私、車にはねられたことがあったっけ。あったのかもしれないし、なかったのかもしれない。ほんと、もうどうでもいい。薄れゆく意識、これは夢なの? それとも幻覚? まあ、どうでもいい。これが覚めたら現実に戻る。それで、いいじゃない。ただ、それだけ。きっと、覚める。
でも、現実が悪夢だったら?