06.三人の男女
ひとまず、湘馬が今すべきことは18時までにあのエンゼルロッジと呼ばれるコテージへ戻ることであった。
だが、その方法が分からない。
「どうしろって言うの……」
結局、湘馬は朝に若月と呼ばれた少女と出会ったタワーマンションの前まで戻って来ていた。
鍵を忘れてしまったと適当な理由をつけて、たまたま通りかかった家族連れの住民にエントランスを通してもらう。
そのままエレベーターで上がり、朝に出てきた扉の前までやって来る。
手がかりがある場所はここ以外に残されていなかった。
朝にはドアを開けたら見知らぬ主婦がいたわけだが、最悪、彼女に何か訊けばいいと湘馬は考えていた。
だが、チャイムを何度か押しても反応は無かった。
仕方なく思い、湘馬はそのままドアに手をかける。
すると、ドアはゆっくりと開き、突然光に包まれて――。
◆◇◆◇◆
「つわっ!」
次の瞬間、湘馬が足を踏み入れたのは、朝にいたあのコテージの玄関であった。
リビングのソファーに座っている三人の顔が一斉に湘馬の方を向く。
「おおう、無事に帰ってきたね。心配してたんだ。戻って来ないんじゃないかってさ」
「……っ! い、一体、これはなんの冗談なんですか! 今までボクはどこに……」
自分でも分からないくらい怒りの感情が込み上げてくるのが湘馬には分かった。
誰かにきつく当たらなければ自身を保てないくらい湘馬の混乱はピークへと達していた。
体格の良い女はそんな湘馬の反応をどこか真剣な表情で確認すると、一度小さく頷く。
「そうだね。朝はバタバタとしていて、ろくに話もできなかったから。君が混乱するのも無理はない」
「何なんですか! ここはっ! 死後の世界だって? 記憶を戻すって、どういうことなんですか! こっちはわけが分からないままなんですよ!」
「分かったから。少し落ち着け。一つ一つ順を追って説明するよ」
「……っ」
体格の良い女は興奮気味の湘馬を落ち着かせるために一度リビングのソファーへと着席させる。
全員が揃っているのを確認すると、体格の良い女は湘馬のことを見ながら改まってこう口にした。
「自己紹介がまだだったね。まずはアタシから名乗るよ。アタシの名前は川邑良子。と言っても、これがアタシの本当の名前かどうかは分からないけどね」
「どういうことですか?」
「だって、アタシたちには記憶が無いじゃないか。名前なんて確認しようがないだろ? 一応、部屋のドアに掛けられているネームプレートが自分の名前ってことになっている。君が目覚めた部屋の前にもきちんと掛けられていたはずだ」
「たしかに……ありましたけど」
「それを見てアタシたちは自分の名前を確認するんだよ。外の世界でもアタシは川邑良子って呼ばれてるから、多分、アタシは川邑良子なんだろうって具合にね」
体格の良いポニーテールの女――良子は、白い歯を覗かせながら笑顔を見せる。
(やっぱり……。これがボクの名前なんだ……)
湘馬は胸元のポケットに手を当てながらそう納得した。
良子はリビングを見渡しながら話し続ける。
「それで、そっちに座っている色男が……」
「ああ、自分で紹介しますよ。はじめまして。僕は依田青司。外の世界では製薬会社の研究職員として働いているんだ」
溌剌とした短髪のスーツ姿の男――青司は、研究職員というイメージとはほど遠いアスリートのようながっちりとした体格をしていた。
「綺麗な奥さんもいるんだろ?」
「あはは。良子さんはいつも口が上手いですね」
「?」
「青司は外の世界では結婚してるのさ。かくいうアタシにも三人の子供がいてね。毎回、外の世界では立派な母親やってるってわけさ。旦那はなぜか見当たらないんだけどね」
「…………」
湘馬は良子の口ぶりの中にある違和感を抱いた。
まるで、外の世界が生前自分が過ごしてきた場所であるかのような口ぶりだったからだ。
(もしかして、あの学校はボクが生きている時に通っていた学校ってことなの?)
記憶にまったくなかったが、そう言われたら学生手帳を持っていたことも納得がいった。
「あの、川邑さんは、外の世界では何をやっているんですか?」
「川邑なんて水臭い呼び方は止めようぜ。他の二人みたいに良子って呼んでくれたほうがいい」
「それじゃ……良子さんは、外の世界では何を……」
「アタシは漁港の卸売り市場で働いているんだ。そりゃ、市場の朝といったら戦場みたいな場所でね。だから、今朝はアタシも少しピリピリしていたのかもしれない。悪かったね」
「いえ。そんなことは……」
第一印象は強面の女というイメージがあった良子であったが、実は気さくな性格なのかもしれないと、湘馬は彼女の笑う顔を覗きながら思った。
「もう一人の紹介がまだだったね。さっきからそこに座ってる彼女の名前は田村姫華。君が来る前にこのエンゼルロッジへとやって来た子だ」
「……良子。違う。正確には前の前」
「あ、そっか。そうだったね」
神経質そうに目を細める派手な化粧の茶髪の女――姫華は、セミショートに切り揃えた襟足を執拗に弄っているだけで決して湘馬の方を見ようとはしない。
片耳には目を覆いたくなるほどの数のピアスが刺さっている。
口元にもいくつかピアスを刺しているようだ。
どう接していいか困っていると、良子がフォローを入れてくる。
「まあ、少し人見知りな性格ではあるけど、仲良くしてやってくれ。悪い子じゃないんだ。それで、君の名前は?」
「えっ? えっと……桜井湘馬……だと思います」
「部屋のネームプレートに書かれていた名前がそうだったんだね?」
「はい」
「じゃあ、多分、それが君の名前だ。なんて呼べばいい?」
「いや、べつに……。なんでもいいですけど……」
それが自分の名前であるとは、湘馬にはまだ実感が湧いていなかった。
思わず投げやりな口調となってしまう。
それが分かったのだろう。
良子は優しく諭すようにこう口にするのだった。
「そう言うなって。記憶を取り戻すまでの間は、それが君を表す唯一の印になるんだから。もっと、自分の名前に愛着を持たないと」
「愛着ですか」
「これからは君のことは下の名前で呼ぶことにするよ。たとえ、それが自分の名前とは思えなくても、今日からそれは君の名前なんだ。みんなそうして慣れていくのさ」
「はぁ」
「これからよろしくな。湘馬」
良子が満面の笑みで手を差し出してくる。
「…………」
彼女から差し出された手を湘馬はじっと見つめる。
果たしてこの者たちを信じて良いのだろうか。
その瞬間、外の世界で会った大人たちの姿が甦った。
教師にも警察にも相手にされなかったのだ。
(……いや。もうこの人たち以外に信じられる人はいない)
そう感じた湘馬は彼女の手をぎゅっと握るのだった。