12.中元美波
それから朝食の時間も青司は熱心に少女に対してレクチャーを続けた。
きっと彼の優しい語り口が安心感を与えたのだろう。
少女は1階へ下りてきた当初よりは幾分この世界について受け入れられるようになっていた。
やがて、外の世界へと行かなければならない時間がやってくる。
話の途中でテーブルから立ち上がると、青司は湘馬に対してこう口にした。
「湘馬君。悪いんだけど、あとは少しお願いできないかな? 彼女に外の世界のことや行き方を教えてほしいんだ。僕はもう〝仕事〟に行かなくちゃいけない時間だからさ」
「わ、分かりました……」
「そういうことだから。あとは彼から色々と訊いてくれ」
青司は綺麗なウィンクを一つすると、慌ただしく自室へと戻り、そのまま玄関を飛び出して行ってしまう。
姫華も準備をして、いつの間にか出て行ってしまったようであった。
すると、テーブルには湘馬と少女だけが残された。
依然として心許なげに辺りをきょろきょろと見渡している彼女に湘馬は声をかける。
「そういえば、まだ名前を聞いてなかったと思うけど、君、自分の名前は分かる?」
「名前?」
「部屋のドアにネームプレートが掛けられているのは見なかった?」
「……え、たしか〝中元美波〟って……」
「そうか。じゃあ、多分、それが君の名前だよ。ボクは桜井湘馬。少なくとも、ボクはそれが自分の名前だって信じている」
「どういうこと?」
それから湘馬は良子に聞かされた話を少女――美波にそのまま伝えた。
続けて青司の話に補足を加える。
「このコテージで生活を送る者は、必ず外の世界へ〝仕事〟に行かなくちゃいけないんだ。多分、君はボクと同じ学生だと思う。部屋に制服が掛かっていなかった?」
「そういえば……ハンガーに一着掛かってたけど」
「じゃあ、とりあえず部屋に戻ってそれに着替えてくるといいよ」
湘馬はどこか生気なく頷く美波を部屋へと送り出すのだったが、戻ってきた彼女の制服姿を見てハッとある既視感を抱く。
彼女はえんじ色のブレザーを羽織っていて、それには見覚えはなかったのだが、胸元に付いた薄ピンク色のリボンとグレーを基調にピンク色のラインが入ったチェックのスカートは、汐洲臨海学園の女子の制服と瓜二つであったのだ。
(……まあでも、学校の制服が似ているなんてよくあることかも)
スタイルの良い美波が着ると、まるでモデルのように見える。
どうしても視線が彼女のカラダに向いてしまう。
「なに?」
「へ? あ、うん。それが君の学校の制服かぁ。いいね」
「…………」
「い、いや、べつに深い意味は無いんだっ。ひとまずこの後の流れについて説明するから!」
色々と不審がられる前に、湘馬はひと通りレクチャーしてから彼女を外の世界へと送り出すことにした。
まだ彼女には若干の戸惑いが見られたが、徐々にこちらの話を受け入れる耐性がついてきたようだ。
湘馬の話に一つずつ頷いていく。
「……それで、ある程度時間が経つと、そのドアからこちらの世界へ戻って来られるようになるんだ。多分、授業が終わる頃には、こちらの世界と繋がるようになっているはず。経験則でしかないけどね。少なくとも、ボクはそれで帰れなかったってことはないから」
「分かった。それで18時までに戻ればいい?」
「ああ。最初は不安に思うかもしれないけど、きっと外の世界にも君のことを助けてくれる人がいるはずだ。大丈夫。そのうち慣れるから」
自分のときは時間がほとんど無かったためか、何の説明も受けることなく外の世界へと足を踏み入れることになった。
親切心からあれこれと口を出してしまった湘馬であったが、ふと要らぬことまで言い過ぎたのではないかと心配になる。
すべてを知ることが必ずしも良いとは限らない。
むしろ、知り過ぎてしまったがゆえに、恐怖心は倍増している恐れがあった。
「…………」
無言で俯く美波の表情は読めない。
どうしてだろう。
そんな彼女の姿を見ていると、やはり初めて会ったようには思えなかった。
どことなく、郷愁をそそられる不思議な感覚があるのだ。
思わずその正体を確かめてみたくなる。
「あ、あのさ……。さっき、ボクを見たとき、何か言いかけてなかった?」
「何?」
「ほら。病院がどうとかって」
「…………」
美波は艶やかなショートヘアの前髪を不安そうにかき分けながら胸元のリボンに触れる。
そして、小さく一言だけこう口にするのだった。
「……ごめん。よく分からない。あなたを見た瞬間、とっさにそんな言葉が胸の奥から溢れ出てきただけで」
「溢れ出てきた?」
「うん。何か伝えなきゃいけないって、焦燥感みたいなものがあったことだけは覚えてるんだけど。でも……今はよく分からない。自分が何を言おうとしていたのかも」
「…………」
同じだ、と湘馬は思った。
彼女に対して何か伝えなければ、謝らなければならない言葉があったような気がする。
だが、それは一体何だったのか。
先ほどまでは確かなものとして残っていた既視感は、少し時間が経った今では徐々に薄れつつあった。
ひょっとして、ボクたち以前にどこかで会ったことがあるんじゃないか、と。
思わずそう訊ねてしまいそうになる。
だが、湘馬は寸前のところでぐっとその言葉は飲み込んだ。
なぜかは分からない。
それを口にしてしまったら、何かを壊してしまいそうな予感があったのだ。
湘馬はどこか居心地の悪い空気を断つためにさり気なく話題を切り替える。
「そういえばさ。君のことはなんて呼べばいいかな? ほらっ。これから一緒に生活するんだ。呼び方が決まってないと名前も呼べないでしょ」
「……名前。中元……美波、だっけ? わたしはなんでもいいよ」
「それじゃ、これからは美波って呼ぶよ。その方がなんとなく親近感が湧くと思うんだ。ボクのことも下の名前で呼んでほしいかな」
「ん」
それが自分の名前であるという自覚がまだないのだろう。
彼女はそう下の名前で呼ばれても、特に何か感情を示すことはなかった。
それからいくつか補足を加えると、湘馬は彼女を玄関から外の世界へ送り出すことにした。
◆◇◆◇◆
「ここから出ればいいの?」
「うん。さっき話した通りここから足を一歩外に踏み出すと、別の世界へと繋がるんだ。不思議な感覚だけど、すぐに慣れるから安心してほしい」
「……わかった」
「必ず18時までには戻ってくるようにね」
頷く彼女が全身光に包まれて消えてしまうのを確認すると、エンゼルロッジにはがらんとした静けさだけが残った。
こうして一人ぽつんと玄関の前で立っていると、親身になって色々と教えてくれた良子の優しさが今さら実感として思い返される。
本当に良子はこのコテージから去ってしまったのだ。
(……良子さん。色々とありがとう……)
天国へと旅立った良子に感謝しつつ、この日も湘馬は外の世界へと出かけていくのであった。