9.商人の守り神
いい笑顔のままのフィト・ギベオンが語る話はこうだった。
ローリエ大公国にはかつて、ふたりの公女がいた。
妹アイリスは政略結婚で隣国のガーネット公爵(ローズの父)へ嫁いだ。
姉カメリアは婿を取り、その彼が今現在のローリエ大公である。姉カメリア、現在のローリエ大公妃はずっとローズの行方を捜していたのだという。
「大公妃はあなたさまのお母上亡きあと、ご自分の姪御さまであるローズさまを、ずっと引き取りたいと要請していたようです。ただ、あなたさまの身はローリエ公国との友好の証であるうえに王子殿下の婚約者であられた。ゆえに泣く泣く諦めたのだと」
ところが気が付けばいつのまにか、その王子殿下の婚約者は『リリー』という名の娘になっていた。自分の姪はどうなったのだと隣国に抗議すれば、教会に匿われているという。
「命を狙われているというのなら、なおさらこんな国には置いておけない。すぐにでもローリエ公国に来てほしいと、命を賜っております」
「ギベオンさまが、なぜ……」
商人であるフィト・ギベオンがローリエ大公妃の使いになっているのはなぜだろうか。そう思い問い掛けたローズだったが、ことばを発しきるまえにフィトのいい笑顔に遮られた。
「私はまだ学生の身ではありますが、商人です。そして商人に国境などないに等しい。どこの国へも商売に赴きますし、その相手が王侯貴族ならば大切にいたします。一度の取引が大きなお客さまですからね。ローリエ大公妃は、その筆頭といっても過言ではありません。大公妃はあなたさまを救うためにありとあらゆる伝手を使っていらっしゃいます」
なるほど。ご説ごもっともである。
きっと成功報酬もそれなりのものが約束されているのだろう。
しかし、さきほどから違和感が途轍もなくある。あのフィト・ギベオンが自信満々にハキハキと喋っているのだ。
(こんなキャラだったかしら?)
ローズの困惑をよそに、フィトの語りは止まらない。
「そして、我がギベオン商会は一番規模の大きな倉庫をサウスポートに置いております。あなたさまに助けられたあの港町です」
フィト・ギベオンは笑顔で語り続ける。
今でも『託宣の聖女』の叡智はサウスポートの港町では語り草になっていると。サウスポートの守護天使・タブリスから直接お告げを受けた少女の話を。彼女がいて守護天使と共にあの港町を守ったからこそ、我々は繁栄し続ける今があるのだと。
「我々商人の、まさに生き神があなたさまです! あなたさまご自身が女神さまです! あなたさまを信仰すべく、新たな女神教会を建てる計画もございますっ」
「それは止めて」
「ひどいっ」
ヒドイのはどちらだ。生き神などと冗談にもほどがある。
しかし、フィト・ギベオンとはこんな性格をしていただろうか。美少女風の容貌を持ちながらも、影のある慎重で暗めの性格だったような気がするのだが。どちらかといえば、どもりがちな、おずおずとことばを紡ぐような弟キャラだった記憶があるのだ。
たしか……彼はそれなりの歴史ある商会の子息で、祖父母に育てられた経歴を持っていたと記憶している。
(んん? 待って。祖父母? ……フィトの両親は漫画に出てきたかしら?)
いや、出てこなかった。単に出番がなかったのか、それとも。
「ギベオンさま。ご両親は、ご健在ですか?」
「はい。今でもあのサウスポートの町で、元気に商いをしております」
なるほど。合点がいった。
少女漫画どおりのストーリーならば、海賊に惨殺されたはずの商人の中に、フィト・ギベオンの両親もいたのだろう。だが、ローズの奔走が功を奏し、あの海賊襲来事件での一般人の被害はゼロだった。サウェスト辺境伯下の騎士団には多少の怪我人は出たが、それでも死者はいない。
両親を失うという惨劇に会わなかったフィト・ギベオンは、明るい性格の青年に成長した。これが、本来の彼なのだ。
見かけは、少女漫画のままなのだが。
「そう、でしたか」
「はい。聖女さまが天使さまのお告げを正しく読み取り、皆に啓示してくださったお陰で、あの町も、我が両親も、先祖代々築き上げた物も、奪われずに済みました。すべて、貴女さまのお陰なのです。
私は今回、かの尊き方より依頼を頂き、文字通り飛び上がって喜びました。なぜなら、大恩ある聖女さまをお助けすることができるからです!」
瞳、きらきら。頬が紅潮し、本当に美少女。
フィト・ギベオンのとてもよい笑顔に見守られながら、ローズは冷や汗をかく。
ここで『是』と頷けば、ローズのための教会建設とやらは立ち消えになってはくれまいか。逆に決定的になったらどうしよう。
ローズの心は千々に乱れる。
「聖女さまが正しきご親族の元に戻るお手伝いをしとうございます。聖女さま……なにか、その御身にローリエ公国にまつわる物をお持ちではございませんか?」
公国にまつわる物など自分はなにひとつ持っていない。そう思ったローズだったが、否、ひとつだけ持ち出したものがあった。
「母の形見の……この指輪を常に身に着けていましたが」
月桂樹を模して造られた金の指輪は、革紐に通して首から下げ、いまも肌身離さず身に着けている。
天使のお告げに信憑性を持たせるために、わざと額に押し付けて痕をつけた、あの指輪だ。
実母が亡くなったとき、当時乳母だった女性がこっそりローズに持たせたのだ。あのときの乳母が実母と共にローズに淑女としての基本姿勢や所作の教育をしてくれた。王族用のそれを教えられていたということか。
彼女は葬儀のあとすぐに公爵家を馘首になってしまい、それ以来会っていない。
月桂樹……そういえば、ローリエ公国の国旗にこれと同じデザインがあったとローズは思い出す。
ローズは母の出自など知らなかった。
そんなことを話すまえに病に倒れ、あっという間に儚くなってしまった方だった。まさか、ローズ・ガーネットが隣国、ローリエ公国の縁戚者だったとは思わなかった。しかもローリエ公国は、いまローズがいるこの修道院から馬車で一時間ていどという近くに国境があるのだ。
(ファティマ。『幸せはすぐ隣にある』ってあなた言ってたわよね)
ファティマはやはりヒロインなのだ。
彼女が言ったとおりに、話は進むのだ。