7.この世界の本当のヒロインは……
「それで? ファティマに酷いことした学生は、どうなりましたの?」
シスター・ジェンマが憤慨したようすで話しかける。彼女にとってもファティマは愛すべき、庇護すべき子どもになっているようだ。
「そのときの私は……階段の下でエルナンの腕に掴まって震えていただけで、実際のその場は見ていないんだけど、現行犯で捕まりましたからね」
どうやら王子殿下の護衛の者がファティマを突き落とした人物を確保したらしい。そしてすぐに警邏部に連行されたとか。
「その令嬢はいつもリリーの取り巻きだった令嬢で……連行されながらもリリーに助けを求めていましたよ。リリーさまの命令があったから、自分は動いたんだって喚きながら」
肩を竦めるファティマ。その手を握りながらローズは思う。
こんな風になんでもないことのように話しているが、階段を突き落とされるなんて経験、恐ろしかったに違いない。その一瞬は、死を覚悟したかもしれない。
凶刃を前に、死の恐怖を覚えた経験を持つローズは慰めのことばも思いつかない。
エルナンが間に合い助けてくれて本当に良かったと思う。
「ローズ、ローズ。私は大丈夫だよ? ローズがそんな顔しないで? ね?」
自分では分からないが、どうやらそうとう顔色が悪くなっているらしい。ファティマの方からも固く手を握り返される。彼女に心配をかける気などなかったのに。
「あらあら。ローズったら心配性ね」
「仕方ないわね。ローズにとってファティマは友だちであるのと同時に娘みたいなものですもの」
シスターたちは明るく穏やかに場を和ませる。彼女たちはローズの心情も(そして命を狙われていたことも)あるていどは理解している。
「むすめぇ? 同い年ですよ⁉⁉ いくらローズにレッスン付けて貰ってるからって、娘はないでしょう⁉⁉」
「あらあらぁ。手のかかる娘ですねぇ」
「ローズまでぇ! もぅ!」
頬を膨らませるファティマの姿に笑いが起こる。人生経験の厚いシスターたちには感謝しかない。その場が和んだことにローズは安堵したが、ファティマと繋いだ手はまだ少し冷たいままだった。
◇
「それで結局のところ……おおもとであるリリーは罰を受けたの?」
就寝支度を終え、部屋の灯りを落としそれぞれのベッドに横になってから。
暗闇の中、ローズは隣にいるはずのファティマに声をかける。
「んー、どうなんだろう。あのあとリリー・ガーネットは学園に来なくなっちゃったから、分かんないのよね」
自粛しての不登校なのか、不貞腐れてのそれなのか。
もしくは学園長命令かなにかで停学扱いなのか。末端貴族であるファティマには分からないと言う。すぐに修道院に来てしまったから余計に。
「それよりも……このまえローズは自分のこと『ローズ・ガーネット』だって、言ってたよね? もしかしてもしかすると、リリーってローズの妹?」
「あらぁ……気がついちゃったぁ?」
「そりゃあ、私だって馬鹿じゃないもん、気が付くよ……そっか。だからリリーの話をしたとき、“ごめんなさい”って言ったのね」
「うん……本当に、ごめんなさいね」
『キミイチ』のストーリーのままならば、ファティマに色々と仕掛けるのは『悪役令嬢ローズ』の役目だった。本物のローズが早期コースアウトしたせいで、それが義妹にスライドされた形だ。
「ローズが謝ることないよ。……ね、ローズ。私、今日、色々言ったじゃない? この世界はゲームかなにかで私のためにあるんだって。でもそれって間違いだって判ったんだ……この世界の本当のヒロインは、ローズなんだって」
「え?」
「だってそうでしょ? 親に疎まれて実家を離れて、苦労して人々を助けるけど……命を狙われて逃亡するヒロイン。ローズのことじゃん」
そんな馬鹿なことはない。この世界は『キミイチ』の世界観に沿って動いている。ヒロインはファティマだ。
「私がそう思うのはね、私をここの修道院に行くよう手配したのが王子だったからなの。命を狙われるヒロインを助けるのは、やっぱり白馬に乗った王子さまだって。定番じゃん?」
白馬に乗った王子?
残念ながらローズの脳裏には、海辺を白馬にまたがった暴れん坊な将軍さまが駆け抜けた。
自分は思考までもが老成しているかもしれないと、ローズは我ながらうんざりした。
「王子殿下が、ファティマを、ここへ寄越したの?」
気を取り直して会話を続ける。
「そうだよ。『君はまず、貴族としての基本的な行動を学んだ方がいい』って言われて修道院行きを手配されちゃった。ここでちゃんと修業したら卒業を認めてくれるって」
なるほど、とローズは思った。
BAD ENDとして修道院送りになったのではなく、ファティマの成績が悪いからの処置だということか。
そういえば、この地は王家の直轄領だしこの女子修道院は戒律が厳しいと評判である。
(と、いうことは。まだ『キミイチ』は終わっていないことになるのかしら?)
階段落ちのイベントは終わっているが、卒業式での断罪イベントはどうなるのだろう?
こうなると、もうなにが正解なのかわからなくなる。
ファティマの楽しそうな声は続いている。
「これって、やっぱり運命だと思うんだよね! 王子の本当の婚約者って、ローズだったんでしょ? 昔婚約者同士だったふたり。ヒロインには試練がつきものだから、このふたりは別れざるを得なかった。だけどひょんなことから、昔の彼女の居場所が判明するのよ。そのきっかけが私! だから、私はさしずめ二人の仲を結ぶキューピットってとこだね。重要な役どころだ! ちゃんとローズのこと、王子に報告するからね!」
ファティマはそんな妄想をしていたのかとおかしく思う。
「だからもうすぐ王子さまがローズを迎えに来るよ。ローズは心の準備していなよ」
「それは……無いわね」
ファティマは知らないだろうが、今頃はガーネット公爵家を断罪する準備が着々と進んでいるはずだ。公にガーネット家が罪人と認定されてしまえば、その血縁者であるローズも連座式に罪に問われてもおかしくない。
教会に保護されて11年。公爵家とはいっさいの関わりがない。情状酌量として、命の保証があるなら温情を受けたと言えるだろう。『託宣の聖女』という呼び名も延命に一役買うかもしれない。そんな状態のローズに王子の迎えなど、到底ありえない。
「わたしはお姫さまじゃなくて、修道女だもの。王子さまのお迎えなんて来ないわ」
「……! そんなことないよ! ローズはまだ正式な修道女じゃあないんでしょ? それに“小公女”はいろいろ辛い目にあうけど、最後はダイヤモンド鉱山で潤ったおじさまが迎えにくるんだよ! 本当の幸せはすぐ隣にあるんだよ!」
「……はい?」
いきなりなにを言い出すのファティマは、とローズは呆れる。
「ハウス世界名作劇場だよ! 小公女……ってもわかんないか……んんっ! そういうお話があるの! 最後にはハッピーエンドなんだよ!」
なぜかムキになっているっぽいファティマ。暗闇だから雰囲気でしか分からないが。いや、この暗闇で相手の表情がわからないからこそ、無茶をいっているのかもしれない。
そして、たしかに公爵令嬢だったローズは『公女』と呼ばれる身分を持ってはいたが、肝心の公爵家はこれから没落するし。しかも。
「迎えに来るのは『王子さま』じゃなくて『おじさま』だったの?」
突っ込まずにはいられなかった。
「そうじゃなくてー! もうっ笑わないでよぅ!」
「ふふっ。……笑ったりして悪かったわ。でもねぇファティマ。もうわたしは幸せなのよ。だから……もう、いいのよ」
ローズはこのまま日々を過ごして18歳になり、誓願を立て正式な修道女となる。
そして朝も昼も夜も、祈るのだ。
自分が平穏無事に過ごせるように。
そして、この世のすべてが。
……かの王子殿下が、健やかに過ごせるように。
『キミイチ』としてではない。成長したラファエル王子の姿を、ちゃんとこの目で見てみたかった、と思わなくもないが。
「なんで? 恋のひとつやふたつやみっつ済ませてから幸せって言いなさいよね! ローズは今までそんなこととは無縁だったでしょ? これからは恋愛パートが始まるのよ!」
どうやらファティマは、ガバリと起き上がったようである。空気の動きと声のする位置でそう理解した。
「恋の、ひとつやふたつやみっつ?」
どうもファティマは突っ込みどころが満載だ。ローズは貞淑な貴族令嬢だったし、これからはもっと厳格に貞淑な修道女になるのだ。恋なんてもの、入る余地はない。
「院長さまが言ってたよ? ローズはもう少し俗っぽくても構わないって!」
「……頭痛がするから、寝るわねぇ……」
このファティマの言動は、半分以上は院長の差し金かと察した。
「えー? なんでよー、もっと話しをしようよ! 恋バナ! ローズと恋バナしたいし!」
そんなことを言いながら、ファティマはローズのベッドに潜り込んできた。横を向いているローズの背後から抱きついてくる。
「ねぇ……ローズ。私と一緒に王都に戻ろ? 今まで刺客は来なかったんでしょ? きっともう、諦めたんだよ。もう大丈夫だよ」
さすがに耳元では大きな声ではなく囁くように語るファティマ。彼女の誘いはなかなか魅力的だ。
「んー。そうかも、だけど……わたしはこのままここにいるわ。ここで、本物の修道女に……『神さまの花嫁』になるの。恋なんて知らなくても生きていけるし」
自分の腹部に回されたファティマの手を軽くぽんぽんと叩く。彼女の温かい手は、もう眠い証拠なのかもしれない。
いま王都へと行ったら。
恐らくきっと、王子殿下の結婚式を目の当たりにするだろう。学園を卒業したらすぐに結婚のはずだから。
リリーは断罪されるだろうが、すぐに次の候補が選出され彼の花嫁になるはずだ。王子殿下とはそういう身分なのだ。
彼らの幸せそうなさまを見るのは、まだちょっと心の準備ができていない。こうして遠く離れた地で、『王子殿下の挙式が先月ありましたよ』なんて終わったこととして、噂話で聞くくらいでちょうどいい。
「えぇー? そんなことないよ。ここにいるおばあちゃんシスターたちだって、半分以上は経産婦でしょ? みんなやることやってから来てるんだよ! 恋をしないなんてもったいないよ! 人生半分以上損しているよ!」
「そう? 損しててもいいわよぉ。だって、ファティマに会えたのだから」
ヒロインと悪役令嬢が、こんな風に一つのベッドで寄り添って眠るような間柄になるなんて、前世の自分は想像もしなかったし、原作者でも思わなかっただろう。そんな奇跡に感謝する。
「わ、私に会えたからって……ローズ。あなたってば本当はものすごいタラシなのね? 私の心を鷲掴んでどうしようっていうの⁉⁉ 私の心はエルナンに捧げたはずなのに、もー! キュン死にしそうよ‼‼」
ローズの背中に額を押し付けながら、なにやらブツブツと文句をいうファティマ。そんな彼女の体温に引きずられ、ローズはいつの間にか夢の世界へ旅立っていった。
翌日、ファティマに迎えが来るなど知らずに。