10.だってヒロインだもの!
「ローズ。いいお話ではありませんか。こんな辺鄙な田舎の修道院にいるよりも、ちゃんとした騎士が護る公国のお城にいる方が、何倍も安全ですよ? それに、貴女にも、貴女の身を心配するお身内がいると知れて、わたくしは嬉しく思いますよ」
院長の皺だらけの温かい手が、ローズの両手を包み込んだ。顔を見れば、その目尻に光るものが見える。
彼女は常にローズの身を案じてはいたが、やはりそれは身内の情と同じではないと知っている。
しかし、若いローズがこのまま修道女となることを疑問視していたのは院長だけだった。
聖教会本部にいる枢機卿などは、ローズがさっさと修道女となり、(もっと信者から寄付を増やす為に)聖女という看板を掲げるよう画策していたことを知っているから余計に彼女の厚意が嬉しい。
「大公さまに、この修道院への寄付をお願いしてくださいね」
いい笑顔の院長は、半分冗談、半分本気で物を言っているのが判る。
(うん、前言撤回。わたしの感動を返して)
「あ、当座の寄付はこちらです」
フィト・ギベオンが、またしても懐から封書(ローリエ家の家紋付き)を取り出し院長に提示した。どうやら中身は小切手らしい。額面を見た院長の瞳が輝いた。
「そして、日用品、食料、その他諸々を多数ご用意いたしました。こちらは、我がギベオン商会からでございます。お代はいりません。どうぞ、お納めください」
そう言えば、幌付きの荷馬車も来ていた。ギベオン商会からだったのか。
渡る世間は鬼ばかり、とは前世でよく聞いたフレーズである。本当にこの世は世知辛い。ギベオンのこれも100%厚意、というより次の商売への先行投資だと考えた方が無難だろう。ちゃっかりしている。流石、商売人。
「はなしは聞いたわ!」
そう言いながらドアをばたんと開け入室したのはファティマ。淑女だった彼女はどこへ。すっかりお転婆娘に逆戻りではないか。
「ローズ! あぁ、ローズ! 良かったわ! あなたの心配をしてくれる伯母さまがちゃんといたのね‼‼」
(さっきの、太陽〇吠えろの山さんの台詞……まぁどうでもいいけど、開いたドアの餌食に、あなたのエルナンさまが)
後頭部を強打し、うずくまるエルナン。
ベテラン騎士さまと、見習いの差、だろうか。もう一人、ドアの前に待機していた騎士さまはちゃんとファティマからのドア攻撃を避けている。
ファティマの言う『はなしを聞いた』というのが本当なら、ドアの前に人の気配があったのだろうと推測できる。
リア充への鉄槌が相方から齎されるとは、なかなか皮肉だ。
(エルナンさま、精進なさいませ)
ローズは自分の首に抱き着くファティマの背中をよしよしと宥めつつ、そんなことを考えていた。
◇
ローズ本人が是とも否とも言わないうちに、あれよあれよと荷物が纏められた。といっても、それほど私物は多くない。
ファティマを迎えにきたはずの黒塗りの箱馬車に、ファティマとフィト・ギベオンと共に乗り込んだ。ローズをローリエ公国へ送るためだという。着替える時間すら惜しいとばかりの対応だ。もっともろくな着替えなど持っていない。修道女の黒い制服のままだが、ベールだけは外した。今はローズの赤髪、いや、濃い金髪が陽射しを受ける。
いいのだろうか。
この国を逃げ出して、自分の幸せを追っても許されるのだろうか。
物語なんか全部無視して、血の繋がりのある親の最期を見届けもせず。
振り返ればすっかり馴染みになってしまった修道女たちが、皺だらけのいい笑顔でローズを送り出した。
修道女全員が見送る中、馬車は国境へ向け出発した。
小一時間もすれば、すぐに隣国・ローリエ公国との国境検問所だ。
「先さまがお待ちのはずです。私は到着を知らせに参りますので」
検問所に着くと、フィト・ギベオンはそういって馬車から降りた。
「ね、ローズ。私のいったとおりになったでしょ? 小公女は幸せになるのよ?」
ふたりきりになると、ファティマはどや顔でローズに言う。
「それは、まさかあなた、全部知っていた、ということ? 予言?」
「えぇ⁉ いや、まさか、違うよ? 予言なんて大それたものじゃないし、知っていた訳でもないよ! こうなればいいなぁとは思ったけど!」
慌てて手を振るファティマが可愛い。
そう、彼女はこの世界のヒロインなのである。彼女の望むとおりにこの世界は展開されるのだ。
「じゃあ、わたしはこのあと、どうなると思うの?」
予言ではない、ファティマの願望を聞き出す。意識的にニヤニヤと表情を作れば、戯れ言だと分かるだろう。
「ローズのこのあと? うーん……うん、恋愛パートが待っているね!」
案の定、察したファティマも昨夜のことばを持ち出してふざける。
「ファティマは? このあと、どうなるの?」
「私のこのあと? うーん……うん、学園をちゃんと卒業してー、エルナンのお嫁さんになるの! そしてふたりはいつまでも幸せに暮らしました、めでたしってなるね!」
ファティマらしい、明るい展望の未来だ。この『ヒロイン』はどこか楽天家だ。
「わたしも『めでたし』がいいなぁ」
たぶん、恐らく、きっと。
この物語のヒロイン・ファティマが望むとおりに進むのだとしても、その『強制力』は少女漫画のエンドマーク、ヒロインが結婚して『めでたし』となるまでの力だろう。
それ以上の出来事は、自分たちのちからで切り開く未来だ。
もう少女漫画は関係ない。
「なるよ! だってローズはヒロインだもの! ローズも最後はハッピーエンドに……つまり、めでたしめでたしになるんだよ! 白馬に乗った王子さまが来るよ!」
ローズの脳内を右から左に駆け抜けたのは、あの有名なテーマソングを背負った暴れん坊な将軍さまだったが。
(悪役令嬢の幸せを願うヒロイン、か。それも悪くないわね)
ローズはファティマを抱き締めた。
「この二か月弱、あなたと一緒に居られて、わたしは本当に幸せだったわ。あなたに会えて、本当に良かった」
前世の少女漫画の記憶を取り戻してから13年。公爵家を追い出されて11年。なかなかハードモードだった生活の中で、この二か月弱が一番純粋に毎日を楽しめていた気がするのだ。
大好きだった少女漫画のヒロイン・ファティマと笑い合って過ごした日々が。
「ローズ……」
ふたりで顔を見合わせぎこちない笑みを交わす。ファティマがなんとなく泣きそうな顔なのは、別れが近いからか。ローズはこの後、フィトを仲介としてローリエの宮殿に住まう人に面通しする。
それが叶えば、もう二度とファティマと会うことなどないだろう。
ファティマとはここでお別れである。
彼女とは笑顔で別れたかった。
「ばいばい、ファティマ」
やっと別れのことばを言えた。と、思っていたら。
「ろーーーずっ‼‼」
扉ごと剥ぎ取る勢いで、箱馬車の戸が開かれた。
女性の叫び声が、ローズを呼んだ声だったかと思うのと同時だった。
開かれた扉の先にいたのは、ひとりのうつくしい熟女。
ローズと同じ、赤みの強い金髪を見事に結い上げ……いや、それが些かほつれている。いかにも慌てて走ってきました、という風情でぜぃはぁと荒く息をつくその人は……
「公妃殿下、お部屋でお待ちくださいとあれほど……!」
後ろから侍従らしき年配の男性が慌てて彼女のあとを追って来た。
「ローズ……、ローズね……! あぁ、あの子と同じ髪の色……!」
侍従の手も借りずに馬車に乗り込んできたその婦人は、間違いなくローズにだけ視線を当てていた。そして、大きな緑の瞳からぼたぼたと涙を溢した。柔らかく細い指が震えながらローズに伸ばされ、両頬に触れる。
「アイリス、そっくり……ローズ、あぁ、こんなに、痩せて……」
優しく、とてもやさしくローズの頬を撫でながら、その人は泣き続けた。
その顔は、ローズの記憶の中の深いところに沈んでいた誰かを呼び起こした。
その人は、いま目の前にいる婦人と同じ瞳の色をしていた。
ベッドに横になって、こんな風に瞳を濡らして『ごめんなさいね』とローズに謝っていた。
『こんなにちいさなあなたを残して逝ってしまうわたくしを許して』といって儚げに泣いた人。
「おかあさま……?」
母の面影を持つ人が、ローズをかき抱いた。姪と妹の名を何度も繰り返し、迎えに行けなくてごめんなさいと謝り続けた。
ローズの瞳もいつのまにか涙で濡れていた。