ただ、羨ましかったんだ
「僕たちそろそろ結婚しないか?」
酒の缶を片手にうっすらと頬が赤色の彼女の顔を横目で見ながら僕は言った。夏の暑い日だった。夜の8時だというのに蝉は鳴いており、どこか遠くでは花火大会でもやっているようで、先程から花火が打ちあがる音がしている。
「…えぁっ?」
疑問形の「え」と不快感を表す「あ」が混じったような返答を彼女はした。元々目つきが悪い彼女の目つきはいつにもまして悪い。最近はいつもそうだ。7時くらいに家に帰ってくるとまず手始めに冷房を20℃まで下げ、冷蔵庫からビールを取り出し不味そうな顔をしながらそれを飲む。どうしたのか聞けば愚痴を僕に漏らしてくるのだ。なんでも最近職場で自分が教育係を務めている後輩の教育がうまくいっていないらしい。
「聞いてよ! またあいつやりやがった。発注品数の0を一つ多く入力したって、バカかよ! 上司に頭下げるのは私なんだよ!」
僕は在宅業なので彼女のように大きな組織の中で後輩ができ、教育係を務めるなどということは夢のような話だ。今は彼女に怒られてばかりの後輩もいつか一人前になって会社の業務をテキパキとこなすようになるのだろう。そんな後輩の姿を見てきっと彼女は何とも言えない充実感や満足感を得るのだろう。ときには飲みに誘ったり誘われたり、同じプロジェクトをして成功したり、また愚痴を聞いたり聞いてもらったりして、彼女が会社を退職するときにその後輩から感謝の言葉や気持ちが彼女に贈られるのだろう。そんなことを想像すると僕は少し彼女を羨ましいと思ってしまう。この間、仕事を手早く片付けて近くのファミレスで昼食をとっていた時に、彼女とその後輩と思われる男性が店に入ってきて、彼女がいつもは見せない顔で後輩に笑いかけた時は「そうか、そういう顔もするのか」という気持ちと「このままじゃだめだ」という二つの気持ちが僕の心の中でぐるぐると回っていた。
だから今日、いつもよりも綺麗に部屋を掃除して、いつもは物であふれている僕の部屋のものをまとめて、一度開けてしまったがいつもは買わない高いワインを用意して、いつも以上に豪勢な料理を用意して、考えていたよりも少し高い指輪を購入して、いつもは不快で彼女に注意していた20℃の冷房に関して何も言わず、嫌いだった彼女の愚痴を我慢して聞いて、いつもはうたない相槌をうって、満を持して彼女に伝えた自分の気持ち。予定していた「結婚しよう」ではなく「結婚しないか」という疑問形で終わったのは緊張で頭が真っ白になっていたせいもあるが、いかにも僕らしい言い方だったので個人的には満足だ。彼女の反応は少しわかりづらいが酔いも回っているようだし、目をつむって彼女なりに色々考えているようではあった。多分3秒くらい沈黙が続いたが、僕にはもっと長く感じた沈黙だった。彼女は一言、
「それって、プロポーズ・・・だよね?」
そう尋ねてきた。僕はああ、と言って首を縦に振った。彼女はまた目をつむって息を吐くと度が低い声で、
「私いますごいイライラしているの。後輩のあの子の事とか、下げたくもない頭を上司に下げる気持ちは平ちゃんにはわからないと思う。」
少し嫌な言い方を彼女はしてくる。
「けど、私がもっとイライラしている理由がそのプロポーズよ。それは私が平ちゃんにずっと前から言ってほしかった言葉なの。」
それは知らなかった。ただ、そう思った。
「だから、イライラするのよ ・・・なんで今なの?」
彼女は泣きそうになりながらそう言うと、体育座りのような格好になり顔をうずめて嗚咽を漏らし始めた。気まずい沈黙がまた流れだした。なんとなくこの返答はわかっていた。しかし、僕の心と頭がこの事実を整理したり理解するのに時間がかかり、少し気持ち悪くて吐きそうだった。そして、準備しておいてよかったなとも思った。
「・・・そうか」
僕はただ一言そういうと、僕の部屋にまとめておいた荷物を持って静かに5年間彼女と過ごしたアパートを後にした。
それから数日後、僕と彼女の共通の友人から彼女が死んだと聞いた。死亡理由は机の上にあった飲みかけのワインやごみ箱に捨てられていた缶ビールの量などから、急性アルコール中毒によるものだという。苦しかっただろうな、僕はただそう思った。